〇大船村{*1}
 △離山(はなれやま)
  鎌倉道の南側にあり。八町余の間に三山並び立てり。中央を長山、北方を腰山{*2}、南方を地蔵山と名づく。
   享徳四年六月、成氏追討の時、鎌倉勢、山麓に出張して京勢を支へし事あり。
 △常楽寺[常楽寺は泰時の法名。]
  粟船山と号す。臨済宗。北條泰時の開基。『東鑑』に「粟船御堂」とある、是なり。仁治三年六月十五日、泰時卒し此に葬る。
 △鐘楼
  宝治二年三月、時頼、泰時追善の為めに鋳する所なり。
 △北條武蔵守泰時墓
  客殿の背後山上にあり。
 △姫宮塚[戒妙大姉と号す。]
  仏殿後の山上にあり。泰時が女の墳なり。
 △木曽冠者義高塚
  姫宮塚の山腹にあり。小塚の上に碑を建つ{*3}。古塚は木曽免の田圃にあり{*4}。延宝八年二月廿一日、村民・石井某、塚を穿ち、青磁の瓶を得たり。瓶中、枯骨あり。因りて塚を築きて収蔵せしと云ふ。義高は義仲の長子なり。寿永元年、鎌倉に質たり。頼朝、女を以て之に妻す。元暦元年、義仲戦死の後、頼朝、後患を慮り、之を殺さんことを謀る。義高伺ひ知りて、密に遁れ去る。四月廿六日、武州入間川原にて、追手の兵・藤内光澄{**1}{*5}に討たる。実検の後、此所に葬りしならん。
   〇長尾氏壘蹟
長尾台村字台の上にあり。長尾平内左衛門景茂の居蹟と伝ふ。景茂は定景が子なり。定景、初め大庭景親に属し、頼朝に敵せし人なり。敗軍の後、降参して免るされたり。承久元年、公暁を誅せり。景茂は、宝治元年六月、三浦泰村に与せしを以て、泰村と同じく法華堂に自尽せり。此時、景茂一族、大抵滅亡せり。長尾氏系図、左の如し。

apic065

二行割書注
 1:曩昔、此地、瀬海にして、粟を積みたる船著岸せしより此名あり。(〇大船村)
 2:腰山に隧あり。其深さ測るべからずと。(〇大船村 △離山)
 3:高三尺許。(〇大船村 △木曽冠者義高塚)
 4:常楽寺{**2}の坤方、二町余を隔つ。(〇大船村 △木曽冠者義高塚)
 5:藤内光澄{**3}は、堀親家が郎等なり。(〇大船村 △木曽冠者義高塚)

校訂者注
 1~3:『新編相模国風土記稿』「鎌倉郡巻之三十 常楽寺 木曽冠者義高塚」に従い訂正。

前頁  目次  次頁  翻字版