〇清浄光寺[元極楽寺蹟]
藤沢山無量光院と号す。時宗の総本山、藤沢道場と唱ふ。開山呑海{*1}。正中二年、極楽寺蹟に就きて当寺を創す。開基は俣野五郎景平入道明阿なり。
△応永戦死供養碑
満隆公〇持仲公〇上杉右衛門佐氏憲入道禅秀〇上杉五郎憲春〇上杉兵庫助氏春〇岩松治部大輔満氏〇上杉伊豆守憲方〇武田安芸守信満〇今川三河守〇椎津出羽守〇今川修理亮〇上杉弾正少弼氏定〇木戸将監満範〇一色兵部大輔憲元〇一色左馬助〇上田上野助〇疋田右京進
応永廿三年十月六日の兵乱より同廿四年に至り、在々所々に於て、敵御方、箭刀水入の為に落命せし人畜亡魂、皆悉く浄土に往生せん。故に此塔を建て、僧俗十念有るべき者なり。
応永廿五年十月六日
満隆・持仲・上杉憲春・同氏春・同憲方・岩松満氏・武田信満等は禅秀の与党。上杉氏定・上田・疋田・椎津・木戸・一色等は持氏に属せり。
右、裏門内の左方にあり。応永廿五年十月、供養の為建つる所の四面塔なり。今は文字剥落して、全文読得難し。
禅秀乱の始末
満隆・持仲・上杉憲春・同憲方・同氏春・岩松満氏・武田信満等は、禅秀の与党。上杉氏定・上田・今川・疋田・椎津・木戸・一色等は、持氏に属せり。抑(そもそも)此乱は、応永廿三年、京都将軍・義持の弟・権大納言義嗣、謀反の志ありて、密使を鎌倉に下し上杉禅秀をかたらふ。禅秀此頃、持氏と隙ありて其企あるが故、異儀なく同意し、新御堂小路・満隆の舘に到りて逆意を勧めしめ、満隆も、予て思ひ立つ事あれば密に悦び、「其身に於ては望なし。甥の持仲、猶子に定めつれば、是を執りたて給はれ。」と有て、亟(すみやか)に同心ありければ、禅秀、病ありと詐り引籠りて調議せり。此企に加はる者、千葉介兼胤・岩松治部大輔満氏の両人は、禅秀の婿なり。又、甲州の武田安芸守信満は舅なる故、最前に馳来たりて力を戮す。其余、東国の武士、味方に加はる輩数百人。十月二日{**1}初夜の頃、鎌府を囲む。此夜持氏、沈酔して打臥けるに、木戸将監満範、馳参りて変を告げ、一色兵部大輔・其子左馬助・同左京亮・今川三河守・同修理亮等、総て五百余騎、持氏を護して上杉安房守憲基が佐介の亭に遁れ、防戦の手分をなして所々を固む。四日、満隆、若宮小路に陣取り、禅秀の手の者は、男・中務大輔憲顕を初として、宗徒の郎等、六本松に押寄するを、上杉弾正少弼氏定、扇ヶ谷より出迎へて、岩松満氏等が兵と合戦す。氏定が手の者、上田上野介・匹田右京進、討死す。氏定も、痛手を負て引退く。岩松満氏、勝に乗て気生坂に押寄す。持氏が馬廻りの士、梶原但馬守・椎津出羽守等、三十騎許り、此坂に馳上りて防戦せしが、梶原・椎津、遂にこゝにて討死す。岩松満氏・渋川左馬助が手の者、国清寺に火を懸れば、諸勢、烟に噎て敗走す。此戦に、今川三河守・江戸近江守・畠山伊豆守等、宗徒の兵、討死せり。佐介の舘も焼失せしかば、持氏、小田原に遁る。氏定は、痛手なれば此供奉に漏れて、暫く当寺に隠れ、今月八日自害して失す。かくて、土肥・土屋の兵、小田原に押寄せ、火を放て攻討しかば、持氏、爰にも怺へずして又没落す。一色憲元・今川修理亮等、蹈止りて戦死せり。是より持氏、筥根に至り、夜明けて駿州に走る。木戸満範等宗徒の人々、持氏の行方を知らず。風説に任せ迹を逐て、豆州名古屋の国清寺に馳集る。禅秀方にも斯とききて、狩野介等、走湯山{**2}の衆徒をかたらひ、同十日彼寺に押寄せ、又火を放ちて攻討しかば、木戸満範を始として廿一人、一同に自尽す。さすれば、鎌倉には満隆・持仲、関東の公方と称して在住しつれど、近国随はざる者多ければ、持仲を大将として、上杉中務少輔憲顕・其弟伊予守憲方、武州へ発向し、十一月廿一日、小机に出張し、江戸・豊嶋・二階堂の党と入間川に対陣す。廿三日、世田原の戦に打負け、鎌倉に引返せり。廿四年正月、満隆・禅秀等、鎌倉より武州世谷原に討て出て、江戸・豊島等と合戦に及びしが、味方力尽て、漸々心変する者多かりしかば、九日、満隆・持仲、恊(かな)はずして鎌倉に没落し、十日、禅秀が男・実性院快尊が雪の下{**3}の坊に遁れ、満隆・持仲を始め、禅秀・伊予守憲方・其弟五郎憲春・兵庫助氏春等、悉く自害して失せにけり。武田信満は甲州都留郡に引籠り、討手の兵と戦ひ終に打負け、二月六日、木賊山にて自害す。岩松満氏も、上州にて残党を集め蜂起しけるが、舞木宮内丞{**4}が為に虜となり、鎌倉に渡され、五月十三日、竜口にて遂に首を刎らる。
△長生院
永亭元年、照姫{*2}建立すと云ふ。三尊弥陀を本尊とし、照姫身代りの正観音・閻魔王の像及び小栗判官満重自作の像等を置けり。〇小栗満重及び郎等十人・照姫等の墓あり。各五輪塔なり。
二行割書注
1:第四世。(〇清浄光寺)
2:俗に照天姫と伝ふる、是なり。薙髪して、長生比丘尼と号す。永享十二年十月十四日、死すと云ふ。(〇清浄光寺 △長生院)
校訂者注
1~4:『新編相模国風土記稿』「鎌倉郡巻之三十五 清浄光寺 応永戦死供養碑」に従い訂正。
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