高座(たかくら)郡[境川相模川の間]
   〇大庭城蹟
大庭村内飛地にあり。山上にて、今、陸田及び林となりたれど、空塹の形猶存す。土人伝へて、大庭三郎景親の居城なり。後、太田道灌の時、居城とし、北條氏の頃は、其旗下・某、在城せりと云ふ。『豆相記』及び『新編諸国城主記』等に拠れば、扇谷上杉氏の築城にして、修理大夫定正、在城し、其子・朝良の時、北條早雲に攻落さる。是より北條氏の有なる。廃城の年代詳かならず。
   〇国分寺
国分村にあり。東光山医王院と号す。古義真言宗。天平九年、 聖武天皇、各国に御建立ありし勅願所の内なり。文治二年五月、頼朝、国分寺修理の企あり。戦国に至り、堂塔以下兵燹に罹り、今は古昔寺域南辺の一堂にして、十一を千百に存するのみ。伽藍の礎石、今相去る事二町許りにあり{*1}。
   〇磯部城蹟
磯部村にあり{*2}。文明中、山内上杉氏の老臣・長尾四郎左衛門景春、謀反を起し、上杉氏と矛盾に及びし頃、当城に軍勢を籠置き、武・相の所々に合戦し、文明十年{**2}、景春敗績して当城を去りしなり。
   〇無量光寺[当麻村(たいまむら)]
当麻山金光院と号し、当麻道場と呼べり。開山、一遍上人。第三世・智得、病と称し、遊行を辞せしかば{**3}、執権・平貞顕、弟子・呑海に其事を命ず。是より当寺の住僧、遊行せず。其後呑海、一寺を藤沢に造立して、相続きて遊行す。然りしより藤沢と確執に及べり。

二行割書注
 1:礎石の大きさ六七尺。田間に散在す{**1}。
 2:村の西南の方に、堀之内・二重堀等の小名あり。是れ城跡なるべし。(〇磯部城蹟)

校訂者注
 1:『新編相模国風土記稿』「高座郡巻之六 国分村 国分寺」割注に従い訂正。
 2:『新編相模国風土記稿』「高座郡巻之八 磯部城蹟」に従い訂正。
 3:『新編相模国風土記稿』「高座郡巻之十 無量光寺」に従い訂正。

前頁  目次  次頁  翻字版