〇新井古城
小網代村{*1}、小名・荒井にあり。城地の形、東を首とし、西を尾とす。北は網代湊、南は油壺の入江にして、海中に突出せること三十町許り。濶(ひろ)さ七八町或は十町。東の一方のみ陸に接す。則ち大手の跡にして、其地を引橋と号す。古、外溝あり。籠城の時橋を引けば、一箇の島嶼となれり。外郭は総て畠となり、土手の形少く存す。内郭の界に空塹あり。北の方は二丸の跡なり。是も陸田を開き、字・合戦場と称す。四辺、土居の遺形あり。此の所、北、空塹を越て本丸に至る。芝原にて、壘垣の形状、尚存す。南隅に松林あり。御庭の松と称す。
 当城は、三浦氏累世割拠の処なり。永亨中、時高、城主として足利持氏に仕へ、同十年、二階堂の人々に一味して持氏を亡す。明応三年、養子・新介、義同と不和にて、父子合戦に及び、九月廿三日、時高、当城にて討死す(時高、上杉高救の子・義同を以て嗣となし、晩年、子を生み、之を立てゝ義同を逐はんとす。義同去て、相州西郡諏訪原総世寺に居る。三浦の部下、時高の所為を悪み、義同に附くもの多し。義同、因りて兵を挙げて、養父を当城に攻めて之を殺せりとぞ)。斯て義同、三浦介となり、後入道して道寸と号す。其子・荒次郎義意をして当城に居らしめ、吾身は大住郡岡崎城に居れり。永正九年八月、北條早雲の為めに岡崎を攻め落され、つゞきて住吉{**1}に入りて、又攻め落され、遂に父子共に当城に楯籠る。早雲、又当城に押寄せ来り、三年の食攻にせしかば、城中兵糧尽き、同十五年七月十一日、父・子・従兵以下百余人、打ち出て悉く討死す。
三浦滅亡の後は北條氏の持城となり、天正十八年、小田原落城の時、永く廃城となりし{**2}なり。
 △三浦陸奥守義同入道道寸墓
 二丸の北隅に在り。碑は天明二年建つ。碑面「従四位下陸奥守道寸義同公墓。永正十五年戌寅秋七月十一日討死。謚号永昌寺殿道寸義同公大禅定門神儀」。及び辞世の歌を鐫る{*2}。碑陰に「天明二壬寅秋七月、永昌九世・正機、募化縁造立。施主、正木志摩守・三浦長門守・杉浦出雲守・松平縫殿助・松平縫殿頭家臣松本文左衛門・奈良長蔵。」と鐫る。
 △三浦弾正少弼義意墓
 道寸墓の東に在り。碑面「大竜院殿玄心安公大禅定門墓」。碑陰「当寺{**3}開基、三浦前陸奥守{**4}道寸公嫡子・弾正少弼荒次郎義意公廟所。地頭・松平縫殿助、地所寄附。天明二壬寅稔七月十一日、網代山海蔵禅寺・智玉叟、代造立。」と鐫る
 △義士塚
 外郭引橋の辺にあり。北條早雲の家士四人の墓なりと相伝ふ。義意最後の奮戦に、敵兵辟易して、敢て近づくものなし。特(ただ)に彼(か)の{**5}四人、義意を目がけ討て懸る。義意、たゞ一刀に打果さんとす。道寸、其勇義を憐みて放免せしむ。落城の後、道寸の志を感じ、此所に来りて自尽す。故に此名ありと云ふ。
   三浦氏系図

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二行割書注
 1:古安志路牟良。(〇新井古城)
 2:うつものも。うたるゝものも。かはらけよ。くだけて後は。もとの土くれ。(〇新井古城 △三浦陸奥守義同入道道寸墓)

校訂者注
 1・2:『新編相模国風土記稿』「三浦郡巻之五 新井古城」に従い訂正。
 3~5:『新編相模国風土記稿』「三浦郡巻之五 新井古城 三浦弾正少弼義意墓」に従い訂正。

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