〇三崎城蹟
三崎町・三崎番所北方の山上にあり。北條山、又、城山とも云ふ。鎌府盛なりし頃、山荘を構へしも此地ならん。『東鑑』に、三崎山荘・三崎御所など記す。頼朝及び実朝、屡(しばしば)此に逍遥して、小笠懸等ありし事見ゆ。城郭を築きし時代、詳かならず。永正の頃は、三浦道寸の持城なり。道寸滅亡の後、北條早雲の所有となり、房州・里見の押として、横井越前守をして此を守らしむ。弘治二年、梶原・富永・遠山等、当城に在りて房州勢と戦ふ。天正年中、氏規{*1}、三浦の城主となりし時、居城とす。北條滅亡の後廃城となりしを、文化八年、松平肥後守容衆、此地を領し海岸防禦の士を置れしが、文政四年、容衆移封の後全く廃せり。
   〇城ヶ嶋村
三崎町の南方、海上四町余にある孤島なり。永正十五年、三浦道寸滅亡の後、其家臣此島に逃れ来りし事、『北條五代記』に見ゆ。〇弘治二年、里見義弘、北條氏と合戦の時此地に陣取りし事、『関八州古戦録』に見ゆ。
   〇三浦駿河守義村墓
金田村・福寿寺に在り。碑、高さ七尺許り。又、寺後の山腹に五輪塔四五基あり。
   〇津久井二郎義行墓[及舘蹟]
津久井村・東光寺本堂の後背にあり。又、村の中程に舘蹟あり。義行は三浦義明の弟なり。頼朝、義を挙るの始より、随従して大に功あり。
   〇衣笠古城
衣笠村の中程にあり。山城なり。麓より登ること三町、頂上に金峯蔵王権現社あり。此所を本丸の蹟と云ふ。南へ下ること若干歩にして平地あり。此を二丸の蹟と云ふ。則、箭執不動の堂あり。東面を大手口と云ふ。当城は三浦平太夫為通、康平年間初めて此に居城し、為継・義継・義明に至るまで、相継ぎて居住す。治承四年八月、頼朝、義兵を挙るの時、平家の被官・畠山重忠・河越重頼・江戸重長等、当城へ押寄せ合戦に及び、城兵敗れ、義明の子・義澄以下一族郎党、城を逃去り、義明、当城に止り討死す。城蹟の東方に古墳あり。上に五輪塔四台あり。相伝て、義明一家の墓なりと云ふ。養和元年六月{**1}、頼朝、此辺に至り、義明の旧蹟を歴覧す。廃城年代詳かならず。
   〇満昌寺[臨済宗]
大矢部村にあり。義明山と号す。建久五年九月、頼朝、義明追福の為に草創す。
  △御霊明神社
   建暦二年、和田義盛建立。義明の霊社なり。其肖像を置く。
  △五輪塔一基
   社の背後にあり。大介の首塚と云ふ。是を奥院と称す。
   〇三浦氏古墓
村北、小名・深谷の山間にあり。山腹を穿ちて、巌窟凡て十九所。窟中、各五輪塔相並べり。此内、大なる窟中に五輪塔二基あり。千手観音の石像を置く。是、三浦為通・同義継の墳なり。其余は皆、三浦一党・九十三騎の墓なりと云ふ。又、板碑一基あり。「文永八年五月十四日。左衛門少尉平盛信」と鐫る。盛信は佐原氏にて、祖先菩提の為に造立せしなり。
  △松樹
  村の巽(たつみ)方に在り。大介腹切松と称す。義明自尽の所と云ふ。
   〇沼田(ぬだ)城蹟
西浦賀村の西界山上にあり。内川新田開墾の前は入海の出崎にして、要害の地なり。三浦義明の持城なり。畠山等の衣笠に寄せ来る時、義盛が奴田に避くる事を勧めて、義明の聞かずして衣笠に討死するの事、『源平盛衰記』に見ゆ。恐らくは是なるべし。

二行割書注
 1:氏康五男。(〇三崎城蹟)

校訂者注
 1:『新編相模国風土記稿』「三浦郡巻之六 衣笠古城」に従い訂正。
 2:『新編相模国風土記稿』「三浦郡巻之七 三浦氏古墳」に従い訂正。

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