狂言記
緒言
一 中古以来行はれたる猿楽が、滑稽なる所作を事としたるは、物語草子の類にも散見する所なるが、室町時代に至りて、猿楽の能(即ち今日云ふ能楽)大に発達すると共に、本来の猿楽は却て狂言の名の下に其特質を発揮し、荘重厳粛なる能は、諧謔縦横なる狂言と相俟ちて演ぜらるゝに至れり。能の材料は多く古代の神話伝説史蹟等を主とせるに反し、狂言の資料は大抵日常俗間の事件に拠れり。彼は古歌古文の趣味を根柢とし、此は俗語俚諺を有体に伝へて、当時の世相を赤裸々に示せり。随て舞台上の人物亦その間に大差あり。狂言に於ける大名も坊主も山伏も目代も鬼も閻魔も、皆その知能力量に於ける弱点を暴露し、以て好笑の料に供せられざるなし。誰か能に比して異彩あるを思はざらむや。即ち狂言は、喜劇的文学として国文学中に価値を有するものと云ふべし。
一 狂言の詞遣には、独白と対話とあり。本文に於て此の二者錯綜す。これ最も読者の留意{**1}を要する点也。詞の外に語(かたり)の部分あり。小歌、謡、囃物など音曲的の部分もあり、又能がかりの物即ち仕舞狂言もあり。これらの諸体は、乞ふ之を本文につきて会得せられむことを。
一 狂言の役名は主なるをシテ又はオモと云ひ、脇役をアドと云ふ。其他役割の名前によりて、殿、太郎冠者など呼ぶこと多し。
一 狂言道には古来主なるもの三流あり。大蔵流、鷺流、和泉流これ也。
一 本書は則ち和泉流狂言の詞書を収む。絵入狂言記と題して元禄年間に大成せられたる刊本四部二十冊二百番あり。分つて狂言記、続狂言記、狂言記拾遺、及び狂言記外篇となす。本書は之を底本として編纂し、上下二巻に分ちて上梓す。
一 刊本狂言記は、漢字及び仮名の用法に於て頗る不完全なるものあるを以て、本書に於ては漢字は或は訂し或は補ひ、仮名も亦力めて語源的歴史的用法に従へり。但し「居(を)ろ」「致(いた)そ」「抱(かゝ)ゆ」「変(か)ゆる」の類は姑く元のまゝとなせり。
一 頭註は、語義出典の大略を掲げ、其未詳なるもの、又は疑はしきものは之を闕く。蓋し狂言記の註釈方面は、実に未開の荒蕪にひとしく、今後の研究に拠るべきもの多ければ也。
  大正三年二月      校訂者 野村八良
校訂者注
 1:底本は「留怠」。