解題
烏帽子折(ゑぼしをり)
一名「麻生」。大名、元旦の出仕に、烏帽子を取りにやる。使の冠者、藤六・下六、殿の宿を忘れ、囃事して帰る。
▲大名「隠れもない大名。藤(とう)六をるか。
▲藤六「御前(おまへ)に。
▲大名「下六は。
▲藤六「両人これに詰めてをりまする。
▲大名「念なう早かつた。汝等、喚び出す、別義でない。明日(みやうにち)は正月元日、出仕にあがらうと思ふが、なにとあらうぞ。
▲藤六「まことに、国許にござりましてなりとも、御礼にあがらつしやれませいで、かなはぬ事でござりまするに、あがらつしやれたらば、ようござりませう。
▲大名「よからうな。
▲藤六「は。
▲大名「やい、して、それがしが烏帽子が、剥げてあつたが、何としたものであらうぞ。
▲下六「心得まして、此中(このぢう)塗りにやつてござりまする。
▲大名「一段うい奴ぢや。急いで取つて参れ。
▲下六「畏つてござりまする。
▲大名「急げ、えい。
▲下六「はあ。
▲大名「戻つたか。
▲下六「いや、まだ、御前を去りもしませぬ。
▲大名「油断のさせまいと云ふ事ぢや。
▲下六「はあ。
▲大名「急げ。やい、藤六、烏帽子はまづ折りにやつたが、して、烏帽子髪などといふものは、結(ゆ)ひつけぬ者は、え結はぬといふが、何としたものであらうぞ。
▲藤六「その御事でござりまする。若(も)し殿様御出仕などとござらう時に、御役に立たうと存じ、某烏帽子髪の結ひやうを存じて居りまする。
▲大名「何ぢや、知つたといふか。一段ういやつぢや。いかう暇のいるものぢやげなほどに、急いで、来て結へ。
▲藤六「畏つてござる。
▲大名「さあさあ結へ。
▲藤六「はつ。
▲大名「やい、そこな奴、某をば、打擲をしをるか。
▲藤六「いや其の御事でござりまするか。此の筒の中に、美男石(びなんせき){*1}が、ござりまする所で、御前の御頭(おつむり)へ、つけねば結はれませぬ。
▲大名「ふん、知らなんだ。さあさあ、来て塗れ。
▲藤六「はつ。
▲大名「やい、まづ離せ。痛いはな。
▲藤六「はあ、いや、ちと結ぼれてござりまする。
▲大名「やい、して、何と、明日(あした)の、襟付(えりつき)は、どうしたものであらうぞ。
▲藤六「まづ下(した)には、白小袖を召しませう。
▲大名「して又中には。
▲藤六「紅梅がようござりませう。
▲大名「上には。
▲藤六「熨斗目(のしめ)を召さつしやれたがようござりませう。
▲大名「おう、これは映合(はえや)うてよかろ。さあさあ、結へ結へ。
▲藤六「はつ、結ひましてござる。
▲大名「して、もよいか{*2}。
▲藤六「いやまだ、額に、おだいづけと申す物をつけまする。
▲大名「さあさあ、急いでつけい。
▲藤六「はつ。
▲大名「やい、其処なやつ、なぜにおのれが、むさい唾(つばき)をつけをるぞ。
▲藤六「いや、これでなければ、つきませぬ。
▲大名「つかずば、如何ほどなりとも、はきかけをれ。
▲藤六「はつ、ようござりまする。
▲大名「して、これははや、烏帽子が遅う来るな。
▲藤六「されば遅うござりまする。
▲大名「急いで、おのれは迎ひにゆけ。
▲藤六「畏つてござりまする。
▲下六「えい、殿の待ちかねさつしやれう。まづ烏帽子を持つて、急いで参ろ。
▲藤六「なう下(か)六、殿の待ちかにやる。急いで持つておりやれ。
▲下六「さうであらうと思ふたい。なうなう、某が出た迄は、七五三飾(しめかざり)門松がなかつたが、今は、七五三飾で、頼うだ御宿を忘れた。
▲藤六「まことに、某も忘れたが、はあ、これでおりやるは。殿様ござりまするか。なう、此処でも、おりやらぬわいの。
▲下六「あゝ、某が覚えた。此処でおりやる。殿様ござりまするか。わつ、此処でもおりやらぬは。何としたもので、おりやらうぞ。
▲藤六「某が思ひつけたは。頼うだ人の、国と名を申して、囃事(はやしごと)で尋ねうず。
▲下六「おう、まことに、これがようおりやらうぞ。して、何と云うて囃さうの。
▲藤六「物と云うて囃さう。信濃の国の住人、麻生殿(あさふどの)の御内(みうち)に、藤六と下六と、烏帽子折に参りて、主(しう)の宿を忘れて、囃事をして行く。
▲下六「あゝ、これが一段でおりやらうぞ。さあさあ、云うて見さしませ。
▲藤六「心得ておりやる。
▲下六、藤六「信濃の国の住人、麻生(あさふ)どんの御内に、下六と藤六が、烏帽子折に参りて、囃物をして行く。
▲藤六「あゝ。何とやらこれでは。後が淋しうおりやるわいの。
▲下六「某が思ひつけたは、あとで、実(げ)にもさあり{*3}、やよ実(げ)にもさうよのと、云うたらばようおりやろの。
▲藤六「さあさあ、囃いて見さしませ。
▲藤六、下六「信濃の国の住人{*4}、麻生(あさふ)どんの御内(みうち)の{*5}、下六と藤六と、烏帽子折に参りて、囃物をして行く。実にもさあり。やよ実にもさうよのさうよの。
▲大名「如何にや如何に、汝等、主の宿を忘れて、囃物をするとも、前代の曲者(くせもの)、身が前へは叶ふまい。
▲下六「はあ、これでおりやるは。
▲藤六「さあさあ囃しやれ囃しやれ。
▲藤六、下六「主の宿忘れて、囃事して行く。実にもさあり。やよ実にもさうよの、実にもさうよの。
▲大名「如何にや如何に、汝等、忘れたは憎けれど、囃事が面白い。
▲藤六、下六「実にもさあり。やよ実にもさうよの。
▲大名「何かの事はいるまい。先(ま)づこちへ、こきいつて、まづ烏帽子著せやれ。ひやろひやろ{*6}、とつばい、ひやろの、ひ。
底本:『狂言記 上』「狂言記 巻の一 一 烏帽子折」
底本頭注
1:美男石――美男蔓の油。
2:もよいか――「もう善いか」。
3:実(げ)にもさあり――「誠に然り」といふ意にて、囃しの詞なり。「さうよの」といふ囃し詞は、興福寺延年舞歌にも見ゆ。
4:信濃国云々――曲にかゝる囃し物。
5:麻生殿――此の大名のこと。
6:ひやろひやろ――笛の譜にて、舞ひ納まるなり。
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