解題
一門振舞に用ふべき張蛸を買ひに都に上りし冠者、騙されて張太鼓を買ひ来る。
張蛸▲大名「御存じの者。天下をさまり、めでたき折からでござる。毎年一門中を、呼び入れまする。太郎冠者を呼び出し、申しつけまうせう{*1}と存ずる。あるかやい。
▲くわじや「お前に居まする。
▲大名「そちを呼ぶも、別の事でもない。毎年一門振舞をする。いつもの如く、張蛸{*2}を高盛にせう。そちは、都へ上つて、張蛸を買うて来い。
▲くわじや「畏つてござる。さりながら、どのやうなる物でござる、存ぜぬ。
▲大名「隠れもない物ぢや。疣(いぼ)がたくさんにあるものぢや。買うて来い。
▲くわじや「心得ました。
▲大名「やがて戻れ。
▲くわじや「畏つた。
▲大名「えい。
▲くわじや「はあ、旦那のやうに、急に物をいひつけて、只今から都へのぼり、はりだこを買ひ取つて参れと申さるゝ。さりながら、上らずばなるまい。まづ、そろりそろり上りまうせう。参る程に都さうな。まづ賑(にぎやか)な事ぢや。さてさて、はつたと失念した。はりだこのあり所を問うて参らなんだ。何と致さうぞ。さてもさても、都の者は、知らぬことは呼ばはつて通る。某も呼ばはつて歩きませう。張蛸買ひませう、張蛸買ひませう、張蛸買ひませう。
▲盗人「都に隠れもないすつぱでござる。田舎者が、何事やら、呼ばはりまする。この者に、あたつて見ませう。これこれ。
▲くわじや「何事ぞ。
▲盗人「其方(そのはう)は、何を呼ばはつて通るぞ。
▲くわじや「某は田舎者でおぢやるが、はりだこを買ひたい処で、呼ばはりまする。
▲盗人「そなた仕合人(しあはせびと)ぢや。
▲くわじや「なぜに仕合人とおぢやるぞ{*3}。
▲盗人「某がはりだこを売る亭主ぢや。
▲くわじや「まことに、お目にかゝつた事は、仕合ぢや。はりだこ見せて下され。
▲盗人「其方ははりだこ見知つたか。
▲くわじや「いやいや、見たことはをりない。
▲盗人「追付(おつつけ)お目にかけまうせう。
▲くわじや「早う早う見せて下され。
▲盗人「心得た。田舎者で、何をも知らぬ。こゝに古い太鼓がある。はりだこぢやと云うて売らう。これこれ。
▲くわじや「これがはりだこか。
▲盗人「其方のいふは、はりたこ。左様ではござらぬ。はりだいこと云ふ物ぢや。
▲くわじや「それなれば、おぼえぞこなうてござる。張太鼓でござるか。
▲盗人「なかなか。この如く、皮を引張り申するによつて、張太鼓と申す。
▲くわじや「また、疣がたくさんにあると申されてござる。
▲盗人「これこれ、疣こそあまたござれ。
▲くわじや「あゝ、疣があるわ、疣があるわ{*4}。買ひませうが、代物(だいもつ)はいか程ぞ。
▲盗人「五百疋でござる。
▲くわじや「則ち、五百疋に買ひまうせう。
▲盗人「代物は、何方(いづかた)で受取らうぞ。
▲くわじや「三條の大黒屋でわたしませう。
▲盗人「めでたう、大黒屋でうけとりませう。そなた程、きびのよい買手もない。みやげに、主(しう)の機嫌直しする囃子物教へまうせう。
▲くわじや「それは何より忝ない。何と。
▲盗人{耳のはたにてさゝやく}
▲盗人「これこれ。今の如くにおしやれ。
▲くわじや「おぼえました。忝なうござる。
▲盗人「さらばさらば。
▲くわじや「やれやれ、うれしい事かな。早う持つて下らう。まゐる程にこれぢや。申し申し、冠者が帰りました、冠者が帰りました。
▲大名「やれやれ、戻つたか、戻つたか。はりだこ求めて来たか。早う見せい、早う見せい。
▲くわじや「心得ました。これこれ。
▲大名「そちは、子供へみやげに、太鼓を持つてきたか。まづ、はりだこ見せい。
▲くわじや「はりだこではござらぬ。張太鼓が本(ほん)でござる。即ちいぼも沢山にござる。
▲大名「おのれめは、都の者にぬかれて来た。
▲くわじや「いやいや、ぬかれはしませぬ。
▲大名「はり蛸と云ふ肴物ぢや。
▲くわじや「肴ならば肴と、とうから云うたいものでござらぬか{**1}。
▲大名「その様にぬかれて、まだものを云ふか。あちへうせい、うせいうせい。
▲くわじや「頼うだ者が叱らるゝは尤ぢや。これが、高盛にはならぬ筈ぢや。都者ぢや。たゞもぬかずに、この如くに、主のきげんが悪うならうと思うて、きげんなほしの囃子ごとを教へた。急いで囃しまうせう。
《囃子物》張太鼓と申すは申すは、中に木を押し入れ、両に皮を引つぱつて、まはりに疣の候へば、張太鼓と申すよ。げにもさあり。やよ、げにもさうよの。げにもさあり。やよ、げにもさうよの。
▲大名「某の機嫌直しに、囃子物をする。ことばをかけませう。いかにやいかにや太郎冠者、だまされたるはにくけれども、囃子物が面白い。内に入りて、泥鰌の鮨をほつばつて。諸白を飲めやれ。
▲くわじや「両に皮を引つぱつて、まはりに疣のあるをこそ、はり太鼓と申すよ。
▲大名「なにかの事もいるまいぞ。内に入りて餅食へ。
▲くわじや「げにもさあり。やよ、げにもさうよの、げにもさうよの。
《あとしやぎりどめ。》
底本:『狂言記 下』「狂言記外編 巻の一 一 張蛸」
底本頭注
1:まうせう――「ませう」也。
2:張蛸――干蛸のこと。
3:仕合人とおぢやるぞ{**2}――刊本かくあり。「仕合人と仰(おしや)るぞ」か、或は「仕合人でおぢやるぞ」か。
4:疣があるわ――蛸の足の疣と太鼓の胴の鋲とを間違ふる也。
校訂者注
1:底本のまま。
2:底本は「合人仕とおやぢるぞ」。
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