解題
 酒飲みの男の妻、あきれて里に帰る。男、追うて舅に逢ふ。かくれ居りし妻、子供の事をいはれ、男に負はれてかへる。

貰聟

▲をな「妾(わらは)は此の辺(あたり)の者でござる。妾がつれやひ、何ともかともならぬ酒飲(さゝのみ)でござるが、酔狂(ゑひぐるひ)を為(し)られて、迷惑致します。それにつき意見を申したれば、暇をくれてござる。別に参らう所はござらぬほどに、恥(はづか)しや、親のかたへ帰りませう。ものも、お案内。
▲をなが親「聞いたやうな声がするが、誰も出ぬか。や{**1}、をなは何として来たぞ。這入りはせいで、余所(よそ)余所しい有様な。
▲をな「いや父(とゝ)様、己(おれ)が此(か)うして来るは、別の儀ではござらぬ。内の食(くら)ひ倒(だふ)れが言事(いひごと)をしたによつて、戻りました。
▲おや「何といふぞ。子中(こなか)をなしたる中を、出るぞ引くぞと云ふ事はあるまい。一時(じ)も置かぬ。御帰りやす。
▲をな「なう、父(とつ)様、さう仰しやるは合点でござる。さらば往(い)にまする。最早(もはや)逢ひますまいぞや。
▲おや「やいやい、それは何事を云ふぞ。身をも捨てうといふ言葉か。
▲をな「なかなか。
▲おや「いや、それほどに思ふならば、まづ這入れ。
▲をな「心得ました。
▲おや「してまた、われは確(しか)と往(い)ぬまいといふ気か。かまひて親に恥をかゝすなよ。
▲をな「は、父(とつ)様、何しに往(い)にませうぞ。
▲おや「おう、したら、えいは。
▲をな「なう、父(とつ)様、其の恥知らずが、尋ねてなど来る事がござろほどに、此処へは来ぬとおしやれい。
▲おや「おう、ぬかることでは無いぞ。
▲むこ「罷出でたるはこの辺(あたり)の者でござる。夜前めぢや者と言葉論を致したれば{*2}、ついと出てござるが、そこら辺(あたり)を尋ねますれども、居りませぬ。定めて親の所へいんだものでござろ。尋ねにまゐりたうござれども、つひに未(ま)だ聟入を致さぬよつて、何とも参り悪(にく)うござる、と申しても、参らずばなりますまい。いや、程なうこれでござる。ものも。お案内。
▲おや「やら、奇特や{*3}、表に案内がある。お案内はどなたでござる。
▲むこ「は、いや苦しうない者でござる。
▲おや「見馴れぬ御方でござるが。
▲むこ「やあ、見馴れさつしやれぬはお道理でござる。此方(こなた)には{**2}、をな上臈と云ふて、娘子がござらうが。
▲おや「なかなか、ござる。
▲むこ「したが、それについて参りましてござる。
▲おや「それは、なんといな事でござつたぞ。
▲むこ「いや、ちよつと両人(ふたり)諍(いさかひ)をめされまして、お出やりましてござる。恥かしながら、尋ねて参りました。
▲おや「ふん、扨は此方(こなた)は、聟殿でござるか。
▲むこ「はゝ。
▲おや「はて、こちへは帰りませぬが、随分其方(そなた)を尋ねて下されい。
▲むこ「畏つてござる。これは如何なこと、此処へも戻らぬと申すが、何と致したものでござろぞ。
▲をな「なう、父(とつ)様、恥知らずが来ました。
▲おや「さればいやい。
▲むこ「はゝ、女共の声がする。ものも。
▲おや「いや、又表に案内がある。しゝ{*4}。こなたは何としてござつたぞ。
▲むこ「何としてと事があるものぞ。女共の声がした。通さつしやれい。
▲おや「やい、そこな者、おぬしがところへは、最早彼(あ)の娘はやらぬぞ。
▲むこ「なう、舅殿、あの内に居るかな法師は{*5}、此方(こなた)の娘のあには子(ご)ではござらぬか{*5}。又、戻すまいと仰(おし)やる。そなたの為には、孫ではおぢやらぬか。母を尋ぬるが、かはゆうはおぢやらぬか。
▲おや「何ほど其の様にほえたとても、往(い)なす事ではないぞ。
▲をな「なう、父(とつ)様、彼(あ)の様に来て又泣きやれば、往(い)ないでも叶ひますまいほどに、往(い)なして下されい。
▲おや「いや、往(い)なすことではない。
▲むこ「をな、それぢや。しうと、しうと、一度再び呉(く)れた女房をば、戻すまいと云ふか。連れて行(い)て見せう。
▲おや「やることではないぞ。
▲むこ「何の連れて行かいでは。
▲おや「こりや何とするぞ。
▲むこ「舅覚えたか。をな、これへ負はれい。
▲をな「父(とつ)様、祭には来ませうぞや。
▲おや「親を踏倒して行き居る奴は、何女房なれや。其方(そつち)に居れ。

底本:『狂言記 上』「狂言記 巻の一 五 聟貰

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底本頭注
 1:をな――をんなの略。親が娘のことをいふ。
 2:めぢや者(もの)――妻なる女。
 3:奇特や――不思議や。
 4:しゝ――呼び掛けの詞。
 5:かな法師――子供の名。「法師」は今、男子を「坊」といふが如し。
 6:あには子(ご)――長子。

校訂者注
 1:底本は「や をなは」。
 2:底本は「此方(こたな)には」。