解題
左近の三郎といふ狩人、途上、僧にあひて、いろいろとなぶる。
鹿狩(しゝがり)
▲僧「罷出でたるは、山の彼方(あなた)まで、ちと用ありて参る愚僧でござる。まづそろそろ参ろ。
▲左近の三郎「罷出でたるは、この山下に住居(すまひ)いたしまする左近(さこ)の三郎と申す狩人(かりうど)でござる。又今日も、狩に参らうと存ずる。まづそろそろ参らう。扨も扨も、狩の門出に、見とむない奴めが行き居(を)る事ぢや{*1}。やあ、彼奴(あいつ)喚(よ)びかけ、嬲(なぶ)らうと存ずる。なうなう御坊。
▲僧「こなたの事でござるか。
▲三郎「なかなか。
▲僧「何の御用でござるぞ。
▲三郎「其方(そなた)は、どれからどれへ行かします。
▲僧「いや、山の彼方(あなた)まで、ちと用ありて参る。
▲三郎「某(それがし)も参るほどに同道申そ。
▲僧「いや、お前見ますれば、お侍と見ましてござる。似合ひませぬやうにござるほどに、まづ先へ参ろ。
▲三郎「なう御坊、出家侍と云うて、いかにも、似合(にやう)たものでおぢやるほどに、同道申そ。
▲僧「いや、身共は急ぎの者でござる程に、まづ先へ参らう。
▲三郎「やい坊主、確(しか)と道連(づれ)になるまいとことか。してこれでもなるまいか{*2}。
▲僧「あゝ申し申し、なりませう。あゝ。
▲三郎「かう、弓を加へたは、ざれごとでおぢやる。さあさあ、ござれござれ。
▲僧「まづ御前、先へござりませう。
▲三郎「いや、出家を供に連るゝといふ事はない。まづ先へ行かしませ。
▲僧「はあ、その義ならば参りまする。
▲三郎「なう御坊、問ひたい事がござるの。
▲僧「何でかござるの。
▲三郎「さぞ魚を、おまゐりやろの。
▲僧「いやいや、出家の魚を食ふといふ事はおぢやらぬ。
▲三郎「いや、おまゐりやろ。
▲僧「いやいや食べぬ。
▲三郎「して、確(しか)と食はぬか。これでもか。
▲僧「あゝ、いや、食ひました食ひました。
▲三郎「さうでおぢやろ。なう御坊、さぞお内儀をお持ちやらうの。
▲僧「出家の、女房持つものではおぢやらぬ。
▲三郎「実正(じつしやう)持ちやらぬか。これでも、持ちやらぬか。
▲僧「あゝ、持ちました持ちました。
▲三郎「これもざれごとでおぢやる。さすが御坊、見上げました。身共をば旦那に取らしやれて下されい。
▲僧「何が扨、お前様さへもつて、ならしやれてくださるゝならば、私が為には、一の旦那でござる。
▲三郎「辱(かたじけな)うこそござれ。こなたをば旦那坊(ぼん)と頼むからは、この世彼(あ)の世までも頼みまするぞ。
▲僧「何が扨、さやうの通りでござる。
▲三郎「なうなう御坊、早(は)や頼みたうござるは。
▲僧「何でかござりまするぞ。
▲三郎「この弓をちと持つてくりやれ。
▲僧「いやそれは、つひに持つた事がござらぬところで、持ちやうを存ぜぬほどに。
▲三郎「おう、知りやらずば、教(をす)へてまつせう{*3}。かう持ちやれ。
▲僧「かうでござるか。
▲三郎「おう、持振(もちぶ)りようおぢやるぞ。さゝ、おぢやれ。
▲僧「参りまする。こなたに申したいことがござる。
▲三郎「何でおぢやるぞ。
▲僧「旦那とならしやれて、下されまするからは、過去帳にも書きまするほどに、名苗字を名乗らしやれい。
▲三郎「ふん、某(それがし)を、お知りやらぬか。左近の三郎と申すは、某がことでおぢやる。
▲僧「ふん、そなたは狩人か。扨も扨も、穢(きたな)い奴が道具を持つた事かな。
▲三郎「やい、其処な坊(ぼん)、彼(あ)の弓はなぜに捨てたぞ。
▲僧「殺生を為(す)る道具をば、この尊(たつと)い愚僧が、持たうはずは無い。
▲三郎「やい、其処な坊主、殺生を為(す)る事を、して、仏の嫌(きら)やるか。
▲僧「おんでない事{*4}。
▲三郎「いや、其の仔細が聞きたうおぢやる。
▲僧「なかなか、語りて聞かせう。それ出家と云つぱ、五戒を保つ。五戒といつぱ、殺生、偸盗、邪婬、妄語、飲酒(をんじゆ)戒、中にも仏の戒め給ふは、あゝ殺生ぢや。
▲三郎「やい坊主、頭は円めたれども、ものは知らぬ。殺生して苦しうない文(もん)がある。語つて聞かせう。それ達磨の文(もん)に曰く、殺生せよ殺生せよ、刹那も、殺生せざれば、その身地獄へ箭(や)の如くと云ふときは、如何ほど殺生しても、苦しうない。
▲僧「やい、それは、胸の中(うち)の殺生ぢや。茲(こゝ)に殺生をして、地獄へ堕(お)つる文(もん)がある。語つて聞かせう。がうぢんくぢやう、すいほうふしやう、こしくぢんでん、だうしや、ぶつくわと聞く時は、とがにならいで叶ふまい。
▲三郎「やい坊主、またこの方にある。一心に生(しやう)ぜざれば、万法に科(とが)なし。科なければ法なし。法なければ仏(ぶつ)もないと聞く時は、如何ほど殺生しても、科にならぬ。
▲僧「やい、其処な者。如何ほどさう云ふとも、鹿(しゝ)を射たらば鹿にならいでかなふまい。
▲三郎「やい其処な坊(ぼん)、鹿を射て鹿になるならば、坊主を射て出家にならう。
▲僧「射る事はなるまいぞ。胸に三寸の弥陀があるぞ。
▲三郎「弥陀があらば割つて見よ。
▲僧「待て少時(しばし)。年ごとに咲くや吉野の山桜、木を割りて見よ花のあるかは、と聞く時は、割つたりと、花はあるまいぞ。
▲三郎「いかにもある。
▲僧「何処にある。
▲三郎「目の前にある{*5}。これははなではないか。
▲僧「何でもない事、疾(とつ)とゝ行け。
底本:『狂言記 上』「狂言記 巻の一 十 鹿狩」
底本頭注
1:見とむない――「見たうもない」。
2:これでも――弓をひく状をなして嚇す。
3:教(をす)へてまつせう――「教へて上げ申さん」。
4:おんでない事――「勿論」。
5:目の前にある――鼻の事なり。
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