解題
 親が倅に手習をさせんとす。走り智恵なる倅、親の口真似をなす。

伊呂波(いろは)

▲親「これはこのあたりの者。倅が成人した程に、手習をさせうと思ふ。居るか。
▲子「なんでござるぞ。
▲親「そちも成人したところで、手習をしたらばよからう。
▲子「心得てござる。教へて下され。
▲親「いろはにほへとちりぬるをわかと云へ。
▲子「そのやうに、立て板に水流すやうに教へられては、おぼえませぬ。そろそろと教へて下され。
▲親「心得た。い。
▲子「とうしん。
▲親「何事を云ふぞ。
▲子「藺(ゐ)をひけば、灯心ができまする。
▲親「ろ。
▲子「かい。
▲親「なにと云ふぞ。
▲子「艪(ろ)には櫂(かい)が添うたものぢや。
▲親「走り智恵な。是は高野の弘法大師様のなされた、いろはと云ふ物ぢや。
▲子「弘法様の四十八にならしられますか。
▲親「たゞ何事も某が教へて云ふやうに云へ。
▲子「親ぢや人の教へらるゝ様にさへ云へば、手習になりまするか。
▲親「なかなか。何事も云ふやうに、教へる様にさへすればよいぞ。
▲子「それはやすい事ぢや。こなたの教へらるゝやうに云ひませう{**1}。
▲親「いろはにほへとと云へ。
▲子「いろはにほへとと云へ。
▲親「さうではない。いろはにほへととばかり云へ。
▲子「さうではない。いろはにほへととばかり云へ。
▲親「まだ、走りぢゑなやつの。
▲子「まだ、はしりぢゑなやつの。
▲親「にくいやつの。口まねをしをるか。
▲子「憎いやつの。口まねをしをるか。
▲親「あゝ腹だちや。
▲子「あゝ腹だちや。
▲親「おのれを何とせう知らぬ。
▲子「おのれを何とせう知らぬ。
▲親「腹のたつ。まづかうしたがよい。
▲子「腹のたつ。まづかうしたがよい。お手つ。

底本:『狂言記 下』「狂言記外編 巻の二 二 伊呂波」

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校訂者注
 1:走り智恵――「先走り」。

校訂者注
 :底本は「云ふませう」。頭注に「刊本にしたがふ」とある。