解題
 一名「狐釣」。古狐、化けて、猟師のをぢ、坊主白蔵主となり、甥が狐を釣らぬやうに戒む。あとにて猟師、また罠を張り、狐、かかる。

こんくわい

▲狐《次第》{*1}「われは化けたと思へども、われは化けたと思へども、人は何とか思ふらん。これは、此所(このところ)に住居(すまひ)仕(つかまつ)る古狐のこつちやう{*2}。さるほどに、この山の彼方(あなた)に、猟師の候。我等の一門を、釣り平(たひら)げる事にて候。何とぞして、彼が釣らぬやうにと思ひ、則ち彼がをぢ坊主に、白蔵主(はくざうす)と申してござるほどに{*3}、これに化けて参つて、意見を加へ、殺生の道を思ひ止まらせうと存ずる事でござる。何と、白蔵主によう似たか知らぬまでい。まづ水鏡を見ませう。
《茲にて水鏡を見て笑ふ。》
あはゝ、はあさてもさても、似たことかな。まづ、彼がところへ急いで参らう。いや、急ぐほどに早(はや)これぢや。ものも、甥子内におぢやるか。
▲をひ「いや、をぢの御坊の声がするが、ものもは誰(た)そ。いえこゝな、何と思召して、御出でなされたぞ。
▲狐「さればされば、此中(このぢう)は久(ひさ)しく逢はいで、懐しさに参つたが、何事もおぢやらぬか。
▲をひ「さればされば、まことに此中は、手前取紛れまして、御見舞も申さず、無沙汰致してござる。まづ御息災で、めでたうこそござれ。いざ内へ這入らしやれませい。
▲狐「おう、はや内へも這入りませう。其方(そなた)に意見の為(し)たい事があつて、これまで参つておぢやるが、聴きやらうか、聴きやるまいか。
▲をひ「いや、をぢの御坊様の意見を、聴かぬと事がござらうか。何事なりとも聴きませう。
▲狐「はあ、おう嬉しい。そなたは、狐を釣りやるといふ事を聞いたが、まことかいの。
▲をひ「いやいや、さやうの物を釣つた事はござらぬ。
▲狐「いやいや、な御隠しやつそ。殊に、狐やなどと云ふ物は、執心深い物で、そのまゝあたんをなすものでおぢやる{*4}。その上狐につけて、とつと仔細のある事でおぢやる。事大事のことでおぢやるほどに、必ず必ず、おとまりやれ。
▲をひ「何しに偽り申さうぞ。さやうの狐を釣るとことは、なかなか思ひもよらぬことでござる。
▲狐「よいよい{**1}、意見の聴くまいといふことでおぢやろ。この上からは、甥を持つたとも思はぬ。ふつふつと{*5}、中違(なかたがひ)でおぢやる。さらばさらば、罷り帰る。
▲をひ「申し申し、まづ戻らしやれい。
▲狐「厭ていば、厭ていば。
▲をひ「平(ひら)に帰らつしやれい。この上は、何を隠しませうぞ。狐を釣りまするが、をぢの御坊の御意見に任せて、ふつふつと、止(とま)りませう。
▲狐「確(しか)とさうでおぢやるか。
▲をひ「はて、何の嘘を云ひませうぞ。
▲狐「おゝ、嬉しい。これも其方(そなた)の為ぢやぞや。それにつけて、狐の執心深いいはれを、語つて聞かせう。
《かたり》抑(そもそも)狐と申すは{*6}、皆神(しん)にておはします。天竺にては、班足太子の塚の神、大唐にては、幽王の后と現じ{**2}、我が朝(てう)にては、稲荷五社の大明神にておはします。昔鳥羽院の御代の時、清涼殿にて、御歌合の御会(ごくわい)のありし時、えいその如くなる大風(おほかぜ)吹き来り、御前なる、四十二の灯火(ともしび)、一度にはらはらぱつと吹き消しければ、東西俄に暗うなる。みかど不思議に思召し、博士を召し占はせられ候へば、安部の泰成参り申し上ぐるは、これは変化(へんげ)のものなり、祷(いの)らせいとありければ、承ると申し、四方に四面の壇をかざり、五色(しき)の幣(へい)をたて、祷らせらるゝ。玉藻の前はこれを見て、御前にたまりかね、御幣を一本おつとり、下野国那須野の原へ落ちて行く。疎略(おろそか)にしては叶はじと、上総介、三浦介に仰せつけらるゝ。その後両人御請(おうけ)を申し、那須野の原へ下著(げちやく)す。四方を取巻き、百疋の犬を入れ、遠見検見(とほみけんみ)を立て呼ばはる。遠見申すやう、胴は七尋(ひろ)、尾は九尋の狐にてありしが、囲(まはり)八丁おもてへ見ゆると、なう、おそろしいことの。その時三浦の大助(おほすけ)がひやうど射る。次の矢を上総の介がひやうど射た。彼(か)の狐を終に射止めた。その執心が大石(たいせき)となつて、空を翔(か)くる翼、地を走る獣(けだもの)、人間をとること数を知らず。かやうの恐しき獣などを、わごりよ達賤しき分にて、釣り括ること、勿体ないこと、かまいて思ひ止まらしませ。
▲をひ「はて扨、狐と申すものは、執心深ひものでござりまする。愈(いよいよ)止りませう。
▲狐「おうおう、嬉しうおぢやる。その狐を釣るものを、ちつと見たいの。
▲をひ「易い事。御目にかけませう。これでござりまする。
《狐の罠を見せる。》
▲狐「はい、こゝな人は、この尊い出家の鼻の先へ、穢(むさ)い物を突きつきやる。その竹の先なは何ぞ。
▲をひ「これは鼠の油揚でござる。このかざを嗅ぎますると、狐どのが、食ひにかゝられまする所を、この縄でひつしめて、皮をひつたくりまするが、いかう気味のえいものでござる。
▲狐「こゝな人は、まだそのつれをいふかの{*7}。その縄を捨てゝわたい{*8}。
▲をひ「畏つた。捨てませう。
▲狐「いや、愚僧がこれに居る内に、前な河へ流しておぢやれ。気味の悪い物、気味の悪い物。
▲をひ「畏つた。いやいや、何と云はれても、狐を釣り止(や)むことはなるまい。まづ此処許(こゝもと)に罠を張つて置きませう。申し申し、最前の罠を河へ流しましてござる。
▲狐「おうおう、一だん一だん{**3}、意見の聴かれて、嬉しうおぢやる。何なりとも用の事があらば、寺へ云うてわたい。銭でも米でも、用にたちませう。
▲をひ「辱(かたじけな)うござりまする{*4}。御無心申すまでゝござらう。
▲狐「さらばさらば、も、かう帰りまする。
▲をひ「はて、御茶でもまゐりませいで。
▲狐「又やがて参りませう。さらば。
▲をひ「ようござりました。
▲狐「おうおう、扨も扨も、人間と云ふ物はあどない者ぢや{*9}。をぢ坊主に化けて、意見をしたれば、まんまと騙されてござる。この上は、天下は我が物ぢや。小歌節で往(い)なう。
《踊節》{*10}いのやれ、古塚へ。あしなかを、爪立てゝ、
《こゝにて罠を見付けて胆をつぶして、》
はい、はつ、扨も扨も、人間といふ者は、賢いものぢや。身共が戻る道中(みちなか)に、まんまと張つて置いた。様子を見ませう。いえ、旨臭(うまくさ)や、旨臭や。一口食はうか。や、この鼠は、親祖父(おやおほぢ)の敵(かたき)ぢや。一撃ち撃つて食はう。
《節》うたれてねずみ、音(ね)をぞなく。我には晴るゝ胸のけぶり、こんくわいの涙なるぞ{*11}、悲しき。くわい。
《中入》《鼓座へとび入る。》
▲をひ「をぢ坊主の意見を、聴かうとは申したが、狐を釣らずには居ることはなるまい。罠を張つて、狐を釣りませう。
《舞台の真中、向ふの方に罠を張る。》
▲狐《生にて出る》「くわい。
《橋懸り、又は鼓座よりも出る。舞台のさきへ這うて出て、罠を見てその後、人の居るか居ぬかを思うて見廻し、そこにて立つて、腹鼓、いろいろの曲をして、罠の上を飛び越し、手足にていろひ、飛びかへり、又は横飛、色々の曲、口伝あり。その後、罠に掛かつて鳴く。》
くわいくわい。
▲をひ「さ、掛つたは。
▲狐「くわいくわいくわい。
▲をひ「どつこい、やるまいぞ。
▲狐「くわいくわい。
▲をひ「どこへどこへ。
▲狐「くわいくわい。

底本:『狂言記 上』「狂言記 巻の二 二 こんくわい

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底本頭注
 1:次第――例の如く、曲にかゝる文句。
 2:こつちやう――俗に「骨頂」と書く。此の上も無き物をさして云ふ。
 3:白蔵主――「蔵主」は禅僧の役名。経蔵を監す。
 4:あたんをなす――「あだをなす」也。返報をすること。
 5:ふつふつと――「ふつつりと」に同じ。断然と。
 6:抑狐と申すは――此の物語は、謡曲「殺生石」にあり。
 7:つれ――「つれな事」とも云ふ。「つれない事」「なさけない事」。
 8:わたい――「渡れ」の転か。「来い」の意。
 9:あどない――「あどけない」に同じ。
 10:踊節――「爪立てゝ」まで、曲にかゝる。「うたれて」云々も。また然り。
 11:こんくわい――「吼(こん)」といひ「噦(くわい)」といふは、狐の啼声也。「こんくわい」に「恨悔」を掛けたるならん。

校訂者注
 1:底本は「よいよい 意見の」。
 2:底本は「后と現じ 我朝(わがてう)にては」。
 3:底本は「一だん。意見の」。
 4:底本は「辱うござりますれ」。