解題
遠国方の僧、都に上りて受戒の後、名を付けて貰ひ、名取川にさしかゝりて、忘れたるその名を所の某に遇ひて思ひ出す。

名取川

▲僧{**1}「《次第》戒壇踏んで受戒して、戒壇踏んで受戒して、わが古寺にかへらん。
《詞》これは遠国方の者でござる。某が国の習(ならひ)で、戒壇の踏まぬは、出家のやうに申さぬによつて、このたび戒壇の地をふみ、受戒まで致いてござる。名を付いて下らうと存じて、さるお寺へ参りてござれば、大児(おほちご)と小児(こちご)と、手習をなされてござる。おそばへそろそろ参りて、私は田舎者でござる。未だ、定まる名がござらぬほどに、名をつけて下されいと、申してござれば、大児のきたい坊とつけられてござる。はりがへの名も{*2}、つけて下されいと、申してござれば、小ちごの、ふしやう坊とつけられた。その上御念が入つて、衣の袖にきたい坊、小児のお手でふしやう坊と、書き付けて下された。急いで国許へ帰らう。や、さて年月(としつき)の念願でござつたに、この度(たび)願(ぐわん)成就いたし、このやうな嬉しい事はござらぬ。さて、最前の名はもの坊、あれは、き坊、え、きたい坊であつたものを、忘れうと致いた。さてはりがへの名がもの坊、あれはなんとやら坊であつたが、え、思ひだすまい。さいぜんの書付を見やう、え、ふしやう坊であつたものを、すでに忘れうとした。さてこれに気の毒がある。若(も)しそちが名を何とお尋ねの時、袖を見て、きたい坊でござるの、ふしやう坊で候のと云はれぬによつて、どうぞ、そらで覚えたいものぢやが、ひたもの申して参らう{*3}。きたい坊にふしやう坊、きたい坊にふしやう坊{**2}、きたい坊にふしやう坊、きたい坊にふしやう坊。これでは人が気違のやうに申す。耳にたゝぬ様に申したいが、や、謡節に申さう。きたい坊と申すは、ふしやう坊の御事なり。きたいふしやうきたい坊ふしやう坊とぞ申しけり。これは重畳の謡になつた。今度は舞節に申さう。きたい坊にふしやう坊、きたい坊にふしやう坊、きたい坊にふしやう坊。今度は小歌節に申さう。きたい坊にふしやう坊、きたい坊にふしやう坊、きたい坊にふしやう坊。是では道捗(みちはか)が参らぬ。某に似合うたごんぎやう節に申さう{*4}。きたい坊にふしやう坊、きたい坊にふしやう坊、きたい坊にふしやう坊。是に大きな川がある。これは上(のぼり)にもあつた川かぢやまで。上(かみ)が降つたか水が濁つた。まづ急いで渡らう。
《川にてころぶ。》
さてさて、にがにがしい事ぢや。まづ急いでまゐらう。何やら落したやうにもあるが、何も落しはせぬが。珠数あり、笠あり、扇あり、身共が名を忘れた。あれはもの坊、え、思ひだすまい。さいぜんのやうに、拍子にかゝつて申して見やう。もの坊と申すは、なんとやら坊のことであつた。書付を見やう。南無三宝名を流した。遠うは参るまい。最前の所へ行(い)て、抄(すく)はうと存ずる。こゝであつた。
《舞》流(ながれ)ははてじ水の面(おも)、流ははてじ水の面、底なるおれを抄はう。われはまた、恋をする身にあらねども、うき名をながす腹たちや。
《地》川はさまざま多けれど、伊勢の国にては、天照大神の住みたまふ、御裳裾川もありやな。熊野なる音無川の瀬々には、権現御影(みかげ)をうつしたまへり。光源氏の古(いにしへ){*5}、八十瀬(やそせ)の川とながめ行く、すゞか川をうち渡り、近江路にかゝれば、幾瀬渡るも安の川{*6}、洲股、あじか、ぐんぜ川、側(そば)は淵なる片瀬川、思ふ人によそへて、阿武隈川もこひしや{*7}。つらきにつけてくやしきは、あひそめ川なりけり{*8}。墨染の衣川、衣の袖をひたして、岸かげの柳の真菰の下を、おしまはしおしまはして抄(すく)ひあげ抄ひあげ、見れば雑魚ばかり、わが名は更になかりけり。わが名はさらになかりけり。
さてもことの外のざこぢや。非時の汁にしたらばよからう。
▲何某「これは何某(なにがし)でござる。これこれ御坊、この所は殺生禁断の所ぢやに、なぜ殺生めさる。
▲僧「殺生はいたさぬが、この川は何と申す。
▲何某「名取川と申す。
▲僧「向(むかう)の在所は。
▲何某「名取の在所。
▲僧「こなたの御仮名(ごけみやう)は{*9}。
▲何某「名取の何某(なにがし)でおぢやる。
▲僧「さては、最前の名をきやつがしてやつた{*10}。この方へ取らうと存ずる。私は田舎者でござる。はるばる上つて、付けて貰うた名でござる程に、最前の名を下されい。
▲何某「そなたの名が何と云ふやら存ぜぬ。
▲僧「さいぜん、この川の名は名取川、こなたの御仮名は、名取の何某ぢやと仰せられぬか。
▲何某「何某ぢやによつて云うたが、それが何と。
▲僧「すれば、こなたが取らせられいで{**3}、誰が取らう。慈悲になりませう。下されい。
▲何某「希代(きたい)な事をおしやる{*11}。
▲僧「そのきたい坊と申すが、私が名でござる。とてもの事に{**4}、はりがへの名をも下され。
▲何某「さいぜんのは、ふと申し合せて仕合(しあはせ)。はりがへの名は存ぜぬ。
▲僧「この名を云はねば、どつちへもやらぬ。
▲何某「さてさて。不祥(ふしやう)な所へ来かゝつた{*12}。
▲僧「そのふしやう坊と申すが、わたくしが名でござる。
▲何某「ふしやう坊と申すが、そなたのはりがへの名か。
▲僧「をゝ{*13}、それぞろよ名取殿{**5}。きたい坊にふしやう坊、きたい坊にふしやう坊。二つの名をば取り返し、本国さしてかへりけり。

底本:『狂言記 下』「狂言記外編 巻の二 三 名取川」

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校訂者注
 1:次第――謡ぶし。
 2:はりがへ――「かけがへ」。
 3:ひたもの申して――専ら口に唱ふる意。
 4:ごんぎやう――「勤行」なるべし。
 5:光源氏の古云々――『源氏物語』「賢木」の巻に、源氏の歌あり。「ふりすててけふはゆくとも鈴鹿川八十瀬の波に袖はぬれじや」。御息所の返歌もあり。
 6:安の川――野洲川のこと。
 7:阿武隈川――磐城を流る。「逢ふ」意につゞけたり。
 8:あひそめ川――筑前太宰府にある藍染川也。「逢初」の意に用ゐる。
 9:仮名――通称。
 10:してやつた――「取つた」の意。
 11:希代――「不思議」。
 12:不祥――「不吉」。
 13:をゝ云々――以下、曲にかゝる。

校訂者注
 1:底本は「次第僧」。
 2:底本は「きたい坊にふしやう坊」以下の繰り返し記号間に読点はない。以下、舞節・小歌節・ごんぎやう節も同様。
 3:底本は「すれば こなたが取らせられいで 誰が」。
 4:底本は「とてもの事に はりがへの」。
 5:底本のまま。