解題
淀鯉を買ひに行けと命ぜられし冠者、作病して行かず。主人ふるまひに行かんといへば、直ちに治る。
痺(しびり)
▲主「あたりの者。冠者あるか。
▲冠者「お前に居まする。
▲主「やがて客がある。淀鯉を買ひに行け。
▲冠者「畏つた。
▲主「早う戻れ。
▲冠者「心得ました。夜も暁も、鯉を買ひにまゐれまゐれとおしやるは、定(ぢやう)の事、たゞ作病(つくりやまひ)をして参るまい。あ痛、あ痛、あ痛、あ痛。
▲主「冠者は何とした。
▲冠者「親のゆづり置かれ申した痺(しびり)がおこつて、あゝ痛や痛や。かなしやかなしや。
▲主「何と、しびりがきれたと云ふか
▲冠者「親の時より{**1}、よそへゆきともないと思へば、そのまま起(おこ)ると云はれましたが、俄にしびれがきれてござる。
▲主「よく休め。
▲冠者「畏つた。
▲主「思ひつけた。某の仕(つかまつ)りやうがある。何とをぢご様より、俄なれどもふるまひにまゐれ、乃ち冠者をも呼ぶと云うて使(つかひ)が来た。おれは参らうず。冠者はなるまいと云うて返事せい。
▲冠者「なう、だんな様。
▲主「何ぞ用か。
▲冠者「申し、をぢご様へおふるまひにお出ならば、某も召し伴(つ)れられて下されい。
▲主「しびりがきれたらば、なるまいぞ。
▲冠者「ことわりを申して聞かしますれば、ついなほりまする。
▲主「さらばなほして見よ。
▲冠者「畏つた。いかにしびり{**2}、よく聞け。だんな殿のお供して、をぢご様へ参れば、なる程結構なおふるまひを下さるゝ。よい酒も沢山に飲む。此度の事ぢや、なほれなほれ。ほい。
▲主「返事は誰(た)がしたぞ。
▲冠者「しびりでござらう。
▲主「奇特な事の。しびりはなほるか。
▲冠者「すきとようなり申した{*1}。
▲主「名誉なしびりぢや。よくば追付(おつつけ)行く。立て。
▲冠者「手をひきたてて下されい。
▲主「さあさあ立つて見よ。
▲冠者「立ちましたが、ようござる。
▲主「痺(しびり)の気(け)はないか。
▲冠者「おふるまひのお供しては、五里でも三里でも、しびりが起(おこ)る事ではござない。
▲主「さやうならば、いひつけて置いた魚を買うて来い。
▲冠者「それではまた、はや、しびりが起りまする。あ痛、あ痛。
▲主「憎いやつの。しされ{**3}。
▲冠者「かしこまつた。
底本:『狂言記 下』「狂言記外編 巻の二 四 痺」
底本頭注
1:すきと――「すつきりと」。
校訂者注
1:底本は「親の時より よそへ」。
2:底本は「いかにしびり よく聞け」。
3:底本に句点はない。
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