解題
 酒屋の伯母の許に、毎年初酒をたべに行く甥、今年は他の宿老に与へられしを怒り、鬼の面を被つて酒を飲む。

伯母(をば)が酒(さけ)

▲甥「罷出でたるは、この辺(あたり)の者でござる。某(それがし)が伯母は、酒屋でござる。何時も某に、初酒をくれらるゝやうにござる。最早(もはや)あがり時分でもござるほどに、参り食べうと存ずる。とかう申すうちに、これでござる。伯母様、内にござりまするか。
▲伯母「甥殿か、ようおぢやつたなう。何と思うて、お出やつたぞ。
▲甥「されば、何時ものごとくに、最早あがり時分ぢやと存じ、初酒をたべに参つてござる。
▲伯母「なう、甥殿、今年はこの辺(あたり)に、めでたいおしゆくらうが{*1}、あつたによつて、初酒をおましたわいの{*2}。
▲甥「はあ、それや、めでたうござりまする。
▲伯母「さればいの。
▲甥「したらば、二番酒をたべませう。
▲伯母「いや、今年は縁起をかへて、わがみには盛らぬほどに{*3}、重ねておぢや。
▲甥「はあ、その義なら帰りませう。
▲伯母「ようおぢやつた。
▲甥「はつ、扨も扨も、伯母が憎いことを申さるゝ。何と致さうぞ。いや思ひつけた事がござる。これに鬼の面(おもて)がござるほどに、これを被(き)て、嚇(おど)して飲みませう。取つて噛も。
▲伯母「はゝ、悲しやの。免(ゆる)さつしやれませい。
▲甥「やい、おのれはおれを見知つたか。
▲伯母「あゝ、いえ、こはいものでござる。
▲甥「やい、この酒部屋に住む、酒甕ぢや。知らぬか。
▲伯母「はあ、いや存じませなんだ。
▲甥「おのれは、今甥が来たと見えたが、伯母一人、甥一人のものを、酒を飲ませをらなんだむごい奴は、取つて噛まう{**1}。
▲伯母「はあ、免さつしやれませい。
▲甥「今度から、飲まし居ろか。
▲伯母「はあ、飲ましませう。
▲甥「それほどは、身がまぶつてやらうに{*4}、飲まし居れよ。
▲伯母「あゝ飲ましませう。
▲甥「そんなら、おれも飲まう。
▲伯母「それにござりまする。参りませう。
▲甥「こちら向き居るな。おのれや{**2}、それや、こちら向くげな。
▲伯母「あゝいや{**3}、見ませぬ。
▲甥「やい、今年は酒が好いわいやい。あゝ、おのれこちら向くな。こちら向いたら取つて噛むぞ。あゝ、いかう酔うた。これへ寄り居ろ。枕にして寝やうに。
▲伯母「あゝ、汝(おのれ)は甥ではないかいやい。
▲甥「あゝ、恥かしや。免(ゆる)さつしやれい、免さつしやれい。
▲伯母「やるまいぞやるまいぞ{*5}。」

底本:『狂言記 上』「狂言記 巻の二 四 伯母が酒

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底本頭注
 1:おしゆくらう――「御宿老」。としより。
 2:おました――「参らせた」。
 3:わがみ――「汝」の意。
 4:まぶつてやらう――弁償する意か。
 5:やるまいぞ――「逃すまい」。

校訂者注
 1:底本は「飲ませをらなんだ むごい奴は」。
 2:底本は「おのれや それや」。
 3:底本は「あゝいや 見ませぬ」。