解題
 冠者、無断にて京内参りす。大名の怒り解けて、都の様子を問ふ。冠者、謡を習ひしと語る。その二千石の謡は大名の曽祖父が事なり。

二千石(じせんせき)

▲大名「罷出でたるは、隠れもない大名。かやうにくわは申せども{*1}、つるゝ下人なたゞ一人。一人の下人めが、某(それがし)に暇(ひま)をも請はず、何方(いづかた)へやらをりそへてござる。聞けば、夜前(やぜん)帰りたる様子でござる。かれが私宅へ立ち越え、折檻の加へうと存ずる。程なうかれが私宅はこれでござる。某が声で案内を請うてござるならば、定めて留守をつかふでござらう。作声(つくりごゑ)をいたし、喚び出そと存ずる。ものも。お案内。
▲冠者「やら奇特(きどく)や。表に案内がある。お案内どなたでござる。
▲大名「退(しさ)り居(を)ろ。
▲冠者「は。
▲大名「おのれは、主(しう)の声を聞き紛ふならば、不(ぶ)奉公といふものではあるまいか。その上某に暇をも請はず、何方へ遊山で候ぞ。
▲冠者「いやはや、一人使はされまする冠者の義でござれば、御暇と申したりとも、下されまいと存じ、かそうで{*2}、京内参(きやううちまゐり)を致してござる。
▲大名「ふん、京内参をすれば、主に暇を請はぬ法でをりそうか。え、それに待ち居ろ。やれ扨憎い奴でござる。只今手打(てうち)にも致さうやうに存ずれども、京内参と申すれば、都の様子も承りたう存ずる。まづこの度は差置きませう。やい其処な者、つつと是れへ寄れ、問ふ事がある。
▲冠者「は。
▲大名「扨この度折檻の加へうずれども、重ねて折檻の加へうずる。都の様子は何と。
▲冠者「いやはや、天下治り、彼方(あなた)の花見、此方(こなた)の遊山とあり、此処彼処(ここかしこ)にひら幕打たせられ、謡ひ、舞ひ、酒もり、舞ひ遊ばつせること、夥(おびたゞ)しいことでござりまする。
▲大名「ふん、さうあらうずる。それにつけ、別(べち)に珍らしき事はなかつたか。
▲冠者「いや、謡を習うて参つてござりまする。
▲大名「それは何と思うて習うて来たぞ。
▲冠者「いやはや、殿様はお大名の事でござりますれば、御一門の参会にも、上座(しやうざ)をつめさしやれまする。すは乱舞(らつぷ)也なりますると、下座(げざ)へ下(さが)らしやりまするのが見つらう存じて、教(をす)へませうと存じて、習うて参つてござりまする。
▲大名「はて扨、一段ういやつぢや。確(しか)と覚えて居るか。
▲冠者「なかなか、覚えて居りまする。
▲大名「さらば謡へ。聞かう。床几(しやうぎ)おくせい、床几おくせい。
▲冠者「はつ。
▲大名「して、囃子物を呼びに遣らうか。
▲冠者「いや、身どもが心拍子でうたひませう。
▲大名「一段のことであらう。急いでうたへ。
▲冠者「二千石(じせんせき)の松にこそ{*3}、千歳を祝ふのちまでも、その名は朽ちせざりけり、その名は朽ちせざりけり。
扨も扨も、一段御機嫌に申し合せたることかな。も一つうたひませう。やれさて、一段の御機嫌に申し合せたることかな。
▲大名「退り居ろ。その謡は、いはれを知つてうたふか。知らいでうたふか。
▲冠者「え、何とござるも存ぜぬ。
▲大名「いや、知らぬといふを討つて捨つればいかゞ。いはれを語り、その後討つて捨てう。これへつゝと寄りをれ。
▲冠者「は。
▲大名「《語り》扨も某が親の親は祖父(おほぢ)よな。其親は曽祖父(ひおほぢ)よな。とつとのあなたの代(よ)のことなるに、安倍の貞任は、奥州衣川にて城郭を構へ、せいじやうかいにまかせらるゝ間{*4}、都よりも、討手の大将下さるゝ。その大将な、八幡殿にてありしよな。攻めも攻め、耐(こた)へも耐へたる前九年後三年、合せて十二年(ねん)三月(みつき)といふものを攻めらるる。ある折に、御大将に御酒宴のはじまりし、先祖のおほぢお酌に参り、大将たぶたぶと受け、祝言一つとありしとき、畏つて候とて、鎧の引合(ひきあはせ)より、扇抜出だし、銚子の長柄をたうたうとうち、二千石(じせんせき)の松にこそ、千歳をいはふ後(のち)までも、その名は朽ちせざりけれと、おし返し三反(べん)うたふ。大将なのめに思召し{*5}、三盃汲んでほし給ふ。程なう敵を平(たひら)げし、天下一統の御代を為したまふも、ひとへに謡の故なりとて{**1}、かやうなる御謡をば、乾(いぬゐ)の隅に壇の築(つ)き、石の唐櫃(からうど)きつてすゑ、一つうたうてどうと入れ、二つうたうてどうと入れ、石の唐櫃のふたの、ぶつとするほどうたひ入れ、七重(へ)に注連(しめ)を張り、南無謡の大明神と額を打つて崇(あが)むる謡をば、何ぞやおのれめが、何時の間にかな盗み取り、謡うたことは曲事(くせごと)。
▲冠者「いや、都にはやりまする。
▲大名「何、洛中までうたひ広ろげ居つたこと、いよいよおのれは憎い奴の。それおなりそへ{*6}。やれ扨、只今討つて捨てうと云ふのに、ほゆるは、国本に残し置いたるめこ子どもに{*7}、名残が惜しいか。鎺本(はゞきもと)鋒先(きつさき)に、申し分があるか申せ。その後(のち)討つて捨てう。
▲冠者「いやはや、お太刀に御難もござりませず、めこ子どもに、名残も惜しうござらぬが、殿様の只今、直れ、打つて捨てうとおしやれまするお手許(てもと)は、おほぢご様のお前にて、御茶の給仕を致したるをりに、畳の縁(へり)に蹴躓き、茶碗を投げてござれば、扨も無躾(ぶしつけ)の奴のとあつて、尺八をおつ取り直し、打擲なされたるお手許と、今殿様の、おのれ討つて捨てうと仰しやるゝお手許が、あゝよう似ましてござる。
▲大名「何といふぞ。親ぢや者の手許と、某が手許と、似たといふか。
▲冠者「あゝ、よう似ました。
▲大名「やい。汝(なんぢ)討つて捨てうと思へども、討つ太刀も弱る。最早(もはや)許するぞ。
▲冠者「それはまことでござりまするか。
▲大名「太刀を鞘に収むるぞ。
▲冠者「その如くに、御心の早う直らしやれまするが、よう似さつしやれましてござる。
▲大名「やい、かう廻るも似たか。行くも似たか。
▲冠者「あゝよう似さしやれました。
▲大名「この太刀を取らするぞ。
▲冠者「その下さるゝお手許は、その儘でござりまする。
▲大名「この脇差も取らする。
▲冠者「その儘でござりまする。
▲大名「余り似た似たとな云ふそ。昔が思ひ出されて悲しいに。やゝ大名とあらうずる者が、斯様(かやう)に歎くところではあるまい。いざ、めでたう笑うていのず{*8}。
▲冠者「是れは一段でござりませう。
▲大名「これへつゝと寄れ。まだよれ。わはゝ。

底本:『狂言記 上』「狂言記 巻の二 五 二千石

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底本頭注
 1:くわは申せども――「くわ」は「華」の意。「大名などと立派な事は申しても」。
 2:かそうで――「仮装」か。「忍びて」「こっそりと」の意なるべし。
 3:二千石――支那にて太守の禄二千石なれば、大名の縁に此く云へるなり。此の文句、曲にかゝる。
 4:せいじやうかい――大蔵流本に「盛昌我意」と書す。
 5:なのめに――「斜ならず」に同じ。
 6:おなりそへ――「御直り候へ」の略。
 7:めこ――「妻」。
 8:いのず――「去なんず」。「帰ろう」。

校訂者注
 1:底本は「故なりとて かやうなる」。