解題
 米銭の借ある七兵衛と、貸主の八兵衛と相争ひ、七兵衛、いひがかりをなして借を免され、猶、仕返しをなさんとす。

胸(むね)つき

▲八兵衛「罷出でたる者は、この辺(あたり)の者でござる。さやうにござれば、七兵衛と申す者に、米銭のひかへてござれば{*1}、たびたび人を遣りますれども、埒を明けぬやうにござる。今日は自身参り、算用を致そと存ずる。やれさて、憎い奴でござる。用のあるをりには、いろいろ追従など申し、今は某(それがし)が前へ、面(つら)見せも致さぬ。遇うてだにござるならば、思ふ儘に、算用をいたそ。やあ{**1}、とかう申す内に、彼が私宅はこれでござる。某が声で案内を請うてござるならば、定めし逢はぬでござろ。作声(つくりごゑ)をいたし、喚出(よびい)だそと存ずる。ものも。お案内。七兵衛殿内にござるか。
▲七兵衛「南無三宝、彼(か)のしてがわせた{*2}。留守をつかひませう。どなたでござりまするぞ。
▲八兵衛「いや、八兵衛でおぢやるが、七兵衛殿へ、御目にかゝりたうて参りておぢやる。
▲七兵衛「今日は留守でござる。
▲八兵衛「さうおしやるは、誰でおぢやるぞ。
▲七兵衛「隣の者が、留守居りまする。
▲八兵衛「その儀でおぢやるならば、これまで用ありて参りたれども、御目にかゝらいで帰つたと、おむしやつてたまふ。
▲七兵衛「畏つてござる。おはいりなされませいで。ようござりました。
▲八兵衛「やれ扨、今のは七兵衛でござるが、留守をつかうてござる。きやつめは、何時も裏道へ外すと申すほどに、裏へ向けて参らう。
▲七兵衛「やれ扨、すでに逢はうといたしたよ。彼(か)のしては、小戻(こもどり)を為(し)られまするほどに、裏道へ外しませう。
▲八兵衛「え、こゝな。
▲七兵衛「え、嬉し悲し。ようござりました。
▲八兵衛「え、人にさしあふての言葉は、数多(あまた)おほからうに、嬉し悲しいとは、どうしたことでおぢやる。
▲七兵衛「いや、只今帰りましてござれば、お前の御出での由を承り、御目にかゝりたいと存じて、表から出ましたら、遅からうと存じ、裏道へ向けて追(お)つかけまするとて、蹴躓(けつまづ)きましたが、悲しうござるやら、遇うたが嬉しうござるやらで、嬉し悲しいと、申すでござる。
▲八兵衛「おう、薑(はじかみ)の食ひ合せとやらで、そないな事もおぢやろ。いや、某がかうして来るも、別義でもおぢやらぬ。彼(か)のいつぞやの算用を致そ。
▲七兵衛「いやはや、こなたの仰しやれぬとても、忘るゝといふ事はござりませぬ。やがての内に算用をいたしませう。
▲八兵衛「其方(そなた)のやがても、いつぞやからの事でおぢやる。どうであらうとまゝ、今日は算用をいたそ。
▲七兵衛「いや、さう仰しやつたというても、無い物が、算用がしられませうか。
▲八兵衛「いや、さうおしやつた物では、埒が明くまい程に、したらば某所(それがしところ)へおぢやれ。
▲七兵衛「いや、金こそ負うたれ、其方(そなた)の所へ行かう筈はおぢやらぬ。
▲八兵衛「して、実正(じつしやう)来まいか。
▲七兵衛「何の行かうぞ。
▲八兵衛「連れて行(い)て見せう。
▲七兵衛「成らば連れて行け。
▲八兵衛「実正来まいか。
▲七兵衛「あ痛あ痛、あいた。人殺(ごろ)し。出合へ出合へ。
▲八兵衛「なうなう七兵衛、何とめさつたぞ。
▲七兵衛「この如くに引摺(ひきず)り倒して、肋骨(あばらぼね)が打ち折れた。出合へ出合へ。
▲八兵衛「なうなう七兵衛、まづ静まつてたもれ。利の分は免(ゆる)さうほどに、堪忍の為(し)てくりやれ。
▲七兵衛「やい八兵衛、人の命が二百目や三百目やで、買はるゝものか。やい、人殺し人殺し。
▲八兵衛「なうなう七兵衛、利元共に免さう程に、堪忍のしてくりやれ。
▲七兵衛「よう、われがやうな者が、免さうわいな。
▲八兵衛「弓矢八幡免するぞ。
▲七兵衛「それはまことでござりまするか。
▲八兵衛「なかなか。
▲七兵衛「あゝ、ちつと胸が寛(くつろ)いだやうにござる。
▲八兵衛「はて、嬉しや。ようおぢやるか。
▲七兵衛「あゝ、ちつとようござりまするが、短冊の巾(はば)ほど、あいたあいた。人殺しよ人殺しよ。
▲八兵衛「あゝ思ひつけた。これを出すからは、ようおぢやろぞ。
▲七兵衛「そりや何でござりまするぞ。
▲八兵衛「いや、御手前の手形でおぢやる。
▲七兵衛「一目見せさつしやれてくだされい。いやはや、紛ふ所はござりませぬ。その身共が名判の所を、引裂かつしやれて下され。
▲八兵衛「をを、好きなやうにしておませう。これこれ。
▲七兵衛「はゝ、最早(もはや)、すきとようござりまする{*4}。
▲八兵衛「はて、嬉しうおぢやる。
▲七兵衛「してまづ、銀子の義は、済みましてござりまするぞや。
▲八兵衛「なかなか、済んでおぢやる。
▲七兵衛「さりながら、未(ま)だ済まぬことがおぢやる。
▲八兵衛「何でかおぢやる。
▲七兵衛「いや、借銀を負ひ、胸板などを折られたなどゝいへば、男もならぬ。其方(そなた)のを、折り返さねばきかぬ。
▲八兵衛「はて、荒いことをおしやる人ぢや。
▲七兵衛「何の荒い。打ち折つて見せう。
▲八兵衛「許せ許せ。
▲七兵衛「やるまいぞやるまいぞ。

底本:『狂言記 上』「狂言記 巻の二 八 胸つき

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底本頭注
 1:ひかへて――用立つること。
 2:彼(か)のして――「其の人」といふ意。
 3:おむしやつてたまふ――「御申しあって下され」の意。
 4:すきと――「すつきりと」也。「全く」の意。

校訂者注
 1:底本は「やは」。