解題
 黄金作りの太刀を伯父に返すべく、冠者を遣す。途中、不用心とて、なまぐさ物の如くなす。冠者、臆病の話。

腥物(なまぐさもの)

▲との「このあたりの者。冠者をるか。
▲冠者「おまへに。
▲との「伯父ぢや者から、黄金作(こがねづくり)の太刀を借つた。返進(へんしん)を仕ると云うて、持てゆけ。
▲冠者「道が不用心にござる。某はなりますまい。
▲との「それで、太刀と見えぬやうにして置いた。これこれ。
▲冠者「誠に太刀とは見えますまい。なまぐさ物の様にござる。
▲との「人が問うたらばなまぐさ物ぢやと云へ。
▲冠者「心得ました。あの道は不用心なが、迷惑ながら参らう。これから先が盗人のある所ぢや。はや日が暮れた。いかう暗うなつた。これこれ用心して通るものぢや。かまへて側(そば)へ寄るな。あゝ何者やら二三十人ゐる。やいやい、そこを退(の)いて、通せ通せ。物を云うてくれい。やいやいやい。これはいかな事。こはいこはいと思ふところで、人かと思うたれば杭ぢや。肝つぶした。この先が悪い所ぢや。
▲との「やれやれ、冠者めを使(つかひ)にやつた。なかなか参る事はなるまい。太刀を人に取られぬ内に、後から参り見ませう。はあ、こゝに怖(おそろ)しがつて独言(ひとりごと)を云うてゐる。嚇(おど)しませう。
▲冠者「南無三宝々々々々、化物がある。あゝ大仏のせいより夥しい。
▲との「がつきめがつきめ。
▲冠者「あゝ悲しや悲しや、助けて下され。
▲との「おのれが持つた物は何ぢやぞ。
▲冠者「これは黄金作の太刀ではござらぬ。腥物でござりまする。
▲との「いやいや、腥物ではあるまい。偽(いつはり)いうたら仕様があるぞ。
▲冠者「あゝ、ありのまゝ申しませう。助けて下されい。黄金作の太刀でござる。
▲との「其太刀そこに置いて行け。
▲冠者「畏つてござる。則ちこなた様へ進上申しまする。命の義をお助けなされませい。
▲との「命助くる。早う去ね早う去ね。見るな見るな。
▲冠者「あゝ、見ませぬ見ませぬ。やれやれ、こはやこはや。急いでかへりまうせう。ござるかござるか。
▲との「冠者帰つたか帰つたか。色が悪うをかしい顔ぢや。
▲冠者「好いお目かなお目かな。なうなう、怖(おそろ)しいめに会ひました。冠者ひとり拾はせられた{*1}。
▲との「何とした事に会うたぞ。
▲冠者「大仏あたりへまゐると、四五十人して某をとりまはして、おひはぎどもが。
▲との「して、なんと。
▲冠者「常々の手柄のほどを見せまうせうと思うて、真中へ取込められながら、おれをえ知らぬか、頼うだ者の御内(みうち)に隠れもない冠者、一人ものがすまいと申してござれば、長刀の、槍のと申して、手に手に持つてかゝる。中にもとびがねに、近頃迷惑仕つて。
▲との「とびがねとは。
▲冠者「かうかうかまへて、つうつうとおこすものよ。
▲との「それは弓であらう。
▲冠者「されば、弓をおこしましてござる。槍も長刀も切り折つてござる。
▲との「手柄をしたな。
▲冠者「その持つた物は何ぞと申すところで、これは兼金作の太刀ではない、なまぐさ物ぢやと申したれば、それをおこすまいか、射殺せと申すところで、やるまいとは思へども、こゝで死すれば犬死ぢや、主の用にたゝねばならぬ、是非に及ばぬ、乞食に取らしたと思ふと申して、四五十人のなかへやつて一文字にかへりました。手柄を致いてござる。
▲との「あの臆病者、その太刀を取つたは某ぢや。
▲冠者「こなたはいつはりを仰せらるゝ。
▲との「おのれめは、大仏よりおびたゞしいのなどと云うてこはがる。おれが、がつきめ。
《ここにて冠者びつくりする。》
それ見よ、今もびつくりするわ。
▲冠者「落武者と申すは、薄の穂にもおぢると申すが、定(ぢやう)ぢや。おびただしいめにあひました。その上ぢやところで、びつくりと仕(つかま)つた。
▲との「たしかに証拠があるが、いつはりを云ふ。
▲冠者「証拠はござるまい。
▲との「ていどか{*2}。
▲冠者「なかなか。
▲との「これこれ、これぢや。
▲冠者「申し申し。富貴なお方ぢや所で、このやうな物を数を持つてござると存ずる。
▲との「まだそのつれ云ふか{*3}。憎いやつの。
▲冠者「あゝ免(ゆる)させられい、免させられい。
▲との「どこへ。やるまいぞやるまいぞ。

底本:『狂言記 下』「狂言記外編 巻の二 九 腥物

前頁  目次  次頁

底本頭注
 1:冠者ひとり拾はせられた――殺さるべきもの助かりたれば、然(し)か云へる也。
 2:ていど――「きつと」{**1}。
 3:そのつれ――「其の様な事」。

校訂者注
 1:底本は「ていど――きつとつ」。