解題
客に嫌はれ踏まれし太郎とその女房と{**1}、倶に仇打ちに行く。皆留守とありて、二人うたひつゝ帰る。
乳切木(ちきりき)
▲主「この在所の者。伊勢講の当にあたつた。皆々呼びませう。冠者。
▲冠者「お前に。
▲主「伊勢講ぢや。皆々お出なされませいと、申して呼びに行け。
▲冠者「心得ました。どれから参らうぞ。どなた様へから参らう。申し、ござるかござるか。
▲客「誰ぢや。冠者か。
▲冠者「もはや皆々様にお出なされて下されいと申さるゝ。
▲客「どれどれもこゝ許(もと)へ来てぢや。早(はや)つれだちて参らうと云へ。
▲冠者「やがて待ちまする。
▲客「心得た。皆々様呼びにまゐつた。ござれござれ。只今お使(つかひ)過分にござる。
▲主「揃うて御出、満足つかまつる。通らしられい。
▲客「さあさあ、どれどれもこちへ寄らしられい。
▲主「今日は太郎めに知らせぬ。さやうに心得さしられい。あれがさし出るに迷惑つかまつる。
▲太郎「このあたりに住む、太郎と申す者ぢや。誰が伊勢講の当人ぢや。使をおこさぬ。参らう。これこれ、おれが所へ使がまゐらぬ。忘れてか。冠者が失念か。掛物をいがめてかけておいた。
▲主「冠者、太郎にふるまひをだす時、よびにやらう。あちへ行けと云へ。
▲冠者「畏つた。太郎々々{**2}。
▲太郎「何ぢや。
▲冠者「ふるまひの時、呼びにやらう。あちへいておぢやれ。
▲太郎「冠者知るまい。すつ込うで居よ。立花(りつくわ)をしたが、誰が立てたぞ。つかみ込うでおいた。次第がわるい。おれにと云はせいで。
▲主「太郎々々。
▲太郎「何でござる。
▲主「その方が座敷にゐれば、話がしまぬ{*1}。後に、ふるまひの時出よ。
▲太郎「いつも出る。出ねばならぬ。
▲客「いやいや、皆々のいやとおしやる。そちへいけ。どれどれも太郎が参つたらば、寄つて踏みまうせう。
▲客「好うござらう。
▲太郎「皆々はおれをなぜに嫌ふぞ。
▲客「さあさあ。
《皆々太郎を踏む。》
▲太郎「あゝかなしや。助けて下され。重ねて参るまい。
▲客「おのれおのれ。
▲太郎「ゆるして下され、ゆるして下され{**3}。
▲太郎が女房「妾(わらは)が男を、寄つてふみ殺したと云ふか。腹だちや腹だちや。男、このなりは、このなりは。
▲太郎「かなしやかなしや。もはや参るまい。助けて下され、助けて下され。
▲女房「妾(わらは)が来たわ来たわ。
▲太郎「女房ども、何と思うておぢやつたぞ。
▲女房「そのやうに踏まるゝものか、踏まるゝものか。
▲太郎「いやいや、ふまれはせぬ。雪駄の紋所をつけて下された。
▲女房「おのれ、はたせはたせ{*2}。
▲太郎「女房どもは命をたくさんさうに、おれはならぬ。其方(そのはう)頼む。はたしてたもれ。
▲女房「はたしに行かぬか。もはや宿へよせぬぞ。女のはたしに行くと云ふことがあるか。
▲太郎「それならば、はたしに参らうが、一人はゆかれまい。
▲女房「おれもつれだち申する。
▲太郎「その方が行けば、きつぱりと、はたしに行くぞ行くぞ。
▲女房「この刀をさいて棒を持つて、先へゆけ先へゆけ{**4}。
▲太郎「誰(た)ガ所へ参らうぞ。市助が所はこゝぢや。
▲女房「押入つて、はたせはたせ。
▲太郎「市助様はお宿にか。
▲女房「めと云へ、めと云へ。様と云ふ事があるか。
▲太郎「つつと気のはやい人ぢや。まづ待たしめ。
▲市助「留守留守。
▲太郎「留守ぢやわいの。るすはしやうことがない。内にゐるならば、こみ入り、この棒で臑(すね)を薙ぎ折つて、腹へ上(のぼ)つて踏み殺してやらうもの。腹だちや。
▲女房「よく云はしました。文七が所へ行け。
▲太郎「心得た。文七はこゝぢや。
▲女房「早くはたせはたせ。
▲太郎「文七様は、内にござりまするか。ござるかござるか。
▲女房「はらだちや、文七めはうちにゐるか、出よ、はたすと云へ。
▲太郎「いやいや、気の短い人ぢや。
▲文七「留守留守。
▲太郎「又留守ぢや。おのれめ、内に居る事ならば、その儘刀で手も足も、切つてのけまうせうもの。
▲女房「よう云はしました。
▲太郎「もはやない。この有様を、いざ謡にうたうて宿へ帰らう。
▲女房「それがよからう。
▲太郎「こゝやかしこ、訪へども訪へども、皆々留守にてぜひやな{*3}。諍(いさかひ)果てての棒乳切木(ぼうちきりき)と云ふ事も{*4}、かゝる事にてあるやらむ。
▲女房「いとほし人ぢや。負うて往(い)なう。
底本:『狂言記 下』「狂言記外編 巻の二 十 乳切木」
底本頭注
1:話がしまぬ――「話が熟せぬ」也。
2:はたせ――「殺せ」の意。
3:ぜひやな――「是非無や」か。
4:乳切木――太く長き杖。
校訂者注
1:底本は「太郎冠者とその女房と」。
2:底本は「▲冠者「畏つた。▲太郎「太郎々々。」。
3・4:底本は句点でなく読点。
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