解題
梶原平三景時がすゞきを生捕り、鈴木が頼朝に対面する事を、男一人にて物語る。
生捕鈴木(いけどりすゞき)
扨も、梶原平三景時は、御前間近くに参り、高声(かうじやう)に申し上ぐる。只今すゞきを、生捕(いけど)つて候と申す。その時頼朝、それは調法のものよ、猫の食はぬやうにしておけ、後ほどに、芥子酢にて辛(から)々とし、戴かんと仰せければ、その時梶原、大(だい)の眼(まなこ)に角を立て、何と、君は聞召(きこしめ)し誤らせ候ぞ。判官殿のお前なる、一騎当千のつはものの、鈴木三郎重家と申し上ぐる。その時頼朝、それは大強(だいがう)のつはものと聞いてあるが、よくこそ生捕りてあれ、すこし遇ひたき仔細の候間、その者此方(こなた)ヘ召せ。畏つて候とて、御前をずんと立ち、重家が小手の縄を免(ゆる)し、高手(たかて)ばかりにて、御前(おまへ)にひきすゆる。又その時頼朝、なに鈴木三郎重家とは、なんめがことか{*1}、義経、頼朝に野心のあるにより、汝等まで縄をかゝりゐるよな、今生(こんじやう)に、思ひ残すことあらば、ありのまゝに、包まずに申せ。その時重家、畏つて候とて、某(それがし)紀州藤代に、老母を一人持つて候が、以ての外に違例し{*2}、君判官殿のおまへは、少しも離れ申さぬ鈴木奴(め)にては候へども、少しの御暇を申し受け、此の間藤代へ帰りしが、奥よりも、熊野山伏の申せしやうは、わが君は、奥州高館の城に、取籠らせ候へば、頼朝よりも、御攻(おせめ)ある由を承はり、参り討死仕(つかまつ)らんと思ひしに、道にて梶原奴(め)に生捕られ、あすの露と消えべく命を長らへて、御前まで引き出され、首はねらるゝこと、なんぼう口惜しき次第にて候と申し上ぐる。その時頼朝、汝縄のざいに至つて、健気立(けなげだて)は入らざることよ、頼朝義経、野心のある間をば、思ひ直させしとせしところに、堀川にて、土佐坊を撃ちたるは、何ぼう不思議なることではないか。その時重家、御諚(ごぢやう)にては候へども、我が君は、頼朝の御代官として、西国へ御向(おんむかひ)あり、驕る平家をば、三年三月(みとせみつき)に攻め滅し、剰(あまつさ)へ以つて、大将宗盛父子共に生捕り申し、鎌倉へ渡さるゝをば、囚人(めしうど)は受取り、わが君を腰越よりも追つ返し給ふ、その折御前に在りしは、亀井、片岡、伊勢、駿河、武蔵坊弁慶、かう申す鈴木奴(め)先(さき)として、鎌倉へ乱れ入り、梶原奴(め)がざんそうの、口をためさんと{*3}、各々申せしが、我が君は親兄(しんきやう)の礼を重んじい給へば、如何(いかゞ)はさることのあるべきと、都へ引(ひき)つれ、御上りなされ候。やはか野心はござ候まい。又君の討手にてござらうずるならば、一門に旗を立てさし申し、うつてむかひござらうずるものが、何ぞや、土佐坊と申せしは、こんのう丸といひし童(わつぱ)をば法師になし給ひ、御前(ごぜん)まじはりあやまりと、京童(きやうわらんべ)が、とりどりに申し候と申しければ、その時頼朝、至極の道理にせめられて、とかうの返事ものたまはず、かゞのみなと毛抜にて{*4}、髯を抜き抜き、仰せ出さるゝには、汝は心中の善き侍かな、あの梶原といひつる者は、一門の内を切つて出る者と聞いてある、汝今日よりも、判官に奉公すべからず、頼朝に奉公肝要なり、その為には、御教書(みげうしよ)をば下さるゝ、疾々(とうとう)国に帰られ候へ、下られ候へ。畏つて候、皆々、御免なされ候へ。
底本:『狂言記 上』「狂言記 巻の二 十 生捕鈴木」
底本頭注
1:なんめ――「汝奴」の意。
2:違例――「病気」。
3:ざんそう――「讒訴」か或は「讒奏」か。「奏」の字の誤用、必ずしも咎むべからず。
4:かゞのみなと毛抜――加賀の湊の名産の鑷子か。
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