解題
一名「八幡の前」。八幡の在所の一人娘に一芸ある聟を求む。聟にならんとする男、弓を射そこなひ、歌を言ひそこなふ。
八幡聟(やはたむこ)
▲しうと「八幡の在所の者{*1}。美人の一人娘を持つた。一芸ある人を、聟にとりまうせうと、高札(たかふだ)をあげた。冠者ゐるか{**1}。
▲冠者「お前に。
▲しうと「高札について、聟のわせたらば、こちへ云へ。
▲冠者「畏つてござる。
▲むこ「このあたりの者。やはたの里に、美人のひとり娘をもつた人がある。一芸ある者を聟に取らうと云うて、高札を打たれた。まづ某が引いてござる{*2}。このあたりに万能足らうた人がある。参り、一芸習うて、聟入いたさう。何と教へてたもればよいが。これぢや。お案内も。
▲男「誰(た)そ。どなたぞ。
▲むこ「某でこぎる。
▲男「何と思うて来たぞ。
▲むこ「只今参ること、別の事でもござらぬ。八幡に、一芸ある者
を聟にとらうと申して、高札がありました。某の、則ち高札を引いてござる所で、何ぞ一芸習ひに参つた。教へて下されい。
▲男「そのやうに、通りがけに一芸は、習はるゝものではない。
▲むこ「それならば、高札を立てて参らうか。
▲男「引いた物を、立てに行くも面倒な事ぢや。何ぞ、ちと前かどに知つた事があればよいが。鼓は。
▲むこ「いやいや。
▲男「鞠は。
▲むこ「いかないかな。
▲男「鉄砲は。
▲むこ「人のをきいてさへ、胸が躍りまする。
▲男「弓は。
▲むこ「弓こそちひさい時からはちこ弓{*3}の射手(いて)にて、好きでござる。
▲男「いや、夫ではない。本弓(ほんきう)の事ぢや。
▲むこ「夫は手につかまへた事もござらぬ。
▲男「思ひよつた。弓も貸してやらう。弓の射手になつて行かしませ。
▲むこ「まづ忝うござる。
▲男「手元を見ませうと云うて{*4}、水鳥か、翔鳥(かけどり)を所望せう所で、射ても中りはせぬであらう。
▲むこ「側(そば)あたりまで矢が参るまい。
▲男「その時皆々笑はう。その方が、まづまづ笑はしますな。一首詠みまうせうと云うて、いかばかり神もうれしとおぼすらん、八幡の前に鳥居立つたりと、よましませ。
▲むこ「いかないかな、詠む事はなりませぬ。
▲男「頭字(かしらじ)を一つ宛(づつ)いうてはなるまいか。
▲むこ「それ、なりませう。
▲男「それがしも、見物の内にまじり居て、そばから、頭字を云うてやらう。
▲むこ「それならば、ようござつて下されい。某は早参る。
▲男「心得た。
▲むこ「やれやれうれしや、一芸習うた。早う参り聟にならう。これぢや。お案内も、お案内も。
▲冠者「誰(た)そ。どなたでござる。
▲むこ「高札のおもてについて参つた。
▲冠者「聟殿か。
▲むこ「なかなか。
▲冠者「申し、むこどののお出でござる。
▲しうと「高札の通(とほり)一芸ござるか、問へ。
▲冠者「畏つた。申し、一芸ござるかと申さるゝ。
▲むこ「弓を仕(つかま)つる。
▲冠者「弓を射ると仰せらるゝ。
▲しうと「お手際を見たうござる。あたり近い放生川へ参れば{*5}、水鳥も翔鳥もある。お供申したいと云へ。
《くわじや、その通り云ふ{**2}。》
▲むこ「なかなか、おとも申しまゐりて、手元を見せませう。
▲冠者「なかなか、おともなされませうと仰せらるゝ。
▲しうと「放生川へおいでなされうと仰せらるゝ。満足に存ずる。
▲むこ「何がさて、参りまうせう。
▲しうと「これこれ、あの三つまゐる真中(まんなか)を射さしられい。
▲むこ「心得ました。射て見せませう。
《射る。しうと笑ふ。》
▲むこ「申し申し。笑ふまい笑ふまい。石が浮(うか)みました{*6}。
▲しうと「やあやあ、何と何と。
▲むこ「一首うかみました。
▲しうと「何と。
▲むこ「いかばかり。
▲しうと「面白い。
▲むこ「神(かみ)けにおしやる。
▲しうと「何ぢや。
▲むこ「神もうれしとおぼすらん。
▲しうと「いかばかり神もうれしとおぼすらん。
▲むこ「やはちがはらで。
▲しうと「何と何と。
▲むこ「やはたのまへに。
▲しうと「出来てござる。これこれ、今のあとは。
▲むこ「今のあとは、やはたのまへに。
▲しうと「出来てござる。これこれ今のあとは。
▲むこ「今のあとは、やはたのまへに。
▲しうと「それは合点ぢや。そのあとは。
《むこ、二三度も同じこといふ。をさめに、》
▲しうと「八幡の前に、八幡の前に。
▲むこ「胴亀こたこた。
▲しうと「とつとと去(い)なしめ。
底本:『狂言記 下』「狂言記外編 巻の三 二 八幡聟」
底本頭注
1:八幡――山城
2:引いて――募に応ずるため、札を引き取る也。
3:はちこ弓――雀小弓の類か。
4:手元――「手際」。
5:放生川(はうじやうがは)――石清水八幡宮の下を流る。
6:石――「一首」を間違ふ。
校訂者注
1:底本は「高札をあげた。▲冠者「冠者ゐるか。▲冠者「お前に。」。
2:底本は「くわじのやそ通いふ」。
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