解題
 太郎冠者と次郎冠者、主人の戒めおきし毒物を砂糖と知り、皆なめ尽くして後、懸物天目などを破る。

附子(ぶす)

▲大名「このあたりの大名でござる。今日はさる方へ参る。太郎冠者(くわじや)を呼び出し、申し付ける事がある。太郎冠者あるか。
▲太郎冠者「はあ。
▲大名「ゐたか。
▲太郎「お前に。
▲大名「念なう早かつた。次郎冠者も呼べ。
▲太郎「畏つてござる。次郎冠者召すわ。
▲次郎冠者「心得た。お前に。
▲大名「汝等を呼び出すは別の事でない。今日はさる方へ行く。両人共に留守をせい。
▲冠者二人「畏つてござる。
▲大名「それに待て。
▲二人「はあ。
▲大名「やい、このあなたに、附子がある程に{*1}、さう心得。
▲二人「それならば、両人共にお供致しませう。
▲大名「さうではない。このあなたに、ぶすと云うて、毒がある。この方から吹く風にあたつてさへ滅却する程に、さう心得。
▲二人「畏つてござる。
▲太郎「やいやい、次郎冠者、今日のやうなおるすはあるまいぞ。
▲次郎「をゝをゝ、そなたが供に行けば、みどもが留守をする。身共が供に行けば、そなたが留守をする。今日のやうな云ひあはせた留守はあるまいぞ。そりやあ。
▲太郎「何事ぢや。
▲次郎「ぶすの方から、風が来た。こゝにてはなせ。
▲太郎「みどもは、あのぶすを見やうと思ふ。
▲次郎「やくたいもないことを。おけ。
▲太郎「あの方から吹く風が、あたらねば苦しうない。扇(あふ)いでくれ。
▲次郎「心得た。
▲太郎「扇(あふ)げ扇げ。
▲次郎「心得た。ぬかるな。
▲太郎「ぬかる事ではない。さあ、紐(ひぼ)は解(と)いたぞ。さて、蓋をあけうほどに、扇げ。
▲次郎「心得た。
▲太郎「さて、蓋をあけたぞ。身共はあの附子を見て来(こ)う。
▲次郎「ー段とよからう。
▲太郎「やいやい、見て来たわ。
▲次郎「いか様なものぢや。
▲太郎「なんぢやは知らぬが、黒い物がどつみりとしてある。旨さうな物ぢやほどに、みどもは食うて見やう。
▲次郎「やくたいもない事を。おけ。
▲太郎「みどもは、ぶすに領じられたか{*2}、食ひたうてならぬ。行(い)て食(く)て来(こ)う。
▲次郎「みどもが居るからは、やる事はならぬ。
▲太郎「名残の袖をふりきりて{*3}、附子の側(そば)へぞあゆみ行く。
《太郎、ぶすを食ふ。》
むゝ。
▲次郎「やい太郎冠者、なんとした。
▲太郎「砂糖ぢや。
▲次郎「なんぢや。砂糖ぢや。
▲太郎「なかなか。
▲次郎「どれどれ。
▲太郎「まづ食うてみよ。
▲次郎「心得た。むゝ、まことに砂糖ぢや。
▲太郎「これを食はすまいと思うて、ぶすぢやの、毒ぢやのとおしやつた。
▲次郎「汝ばかり食(く)てよいものか。
▲太郎「それならば、ちとやらう。
▲次郎「そのやうに取らずとも、ちつと取れ。
▲二人「さてさてうまい事かな。
▲太郎「ほゝう、よい事めさつた。頼うだお方の、ぶすぢやの、毒ぢやのとおしやつたに、皆おくやつたと、頼うだお方のお帰りなされたらば申し上ぐる。
▲次郎「みどもが、おけと云うたに開けた。某がまつすぐに、申し上ぐる。
▲太郎「やいやい、これはじやれ事ぢや。この言ひわけは、あの掛物をやぶればよい。
▲次郎「心得た。さらりさらり。
▲太郎「よい事めさつた。あれは頼うだお方の、牧渓和尚(もつけいをしやう)の墨絵の観音で、御秘蔵なされたものを、あの様にめさつた。お帰りなされたら、きつと申し上ぐる。
▲次郎「破れと云うたによつて、やぶつた。みどもが申し上ぐる。
▲太郎「やいやい、これもじやれ事ぢや。
▲次郎「さて、この言ひわけどもは、何とするぞ。
▲太郎「この大天目を破(わ)れば、いひわけが立つ。
▲次郎「いかないかな、また迷惑をさせうで。
▲太郎「身共も、手をかける。そちらを持て。
▲次郎「心得た。
▲太郎「ぐわらり。
▲次郎「ちん。
▲太郎「さて、おかへりなされたらば、泣いて居よ。
▲次郎「泣けばよいか。
▲大名「只今罷帰(まかりかへ)る。やいやい、もどつたぞ。
▲二人「泣け泣け。
▲大名「心許ないが、何事ぢや。
▲太郎「次郎冠者申し上げ。
▲次郎「わごれ{*4}、申し上げさしませ。
▲太郎「お留守を大事と存じて、次郎冠者と相撲をとりましてござれば、次郎冠者は手とりでござり、私が小股をとつてこかしますを、こけまいと存じて、掛物に取付いたれば、あのやうになりました。
▲大名「これはいかな事。あれは、みどもが秘蔵の観音を、あのやうにし居つた。
▲次郎「かへしさに、天目の上へ投げられまして、あのやうに微塵になりました。
▲大名「これはいかな事。おのれをなんとしたものであらうぞ。
▲太郎「かやうに大事の御道具を損(そこな)ひまして、生けてはおかせられまいと存じて、附子を食べて死なうと存じて、下されたれども{*5}、まだ死にませぬ。
▲大名「おのれ等、今のまに滅却せうぞ。
▲太郎「一口食へども{*6}、まだ死なず。
▲次郎「二口食へども、死なれもせず。
▲太郎「三口四口。
▲次郎「五口六くち。
▲二人「十口あまり、皆になるまで食うたれども、死なれぬ命、めでたさよ。なんぼう。
▲大名「やい、そこなやつ。
▲次郎「はあ。
▲太郎「これは何としたものであらう。
▲大名「まだ、おのれはそれに居る。
▲二人「ゆるさつしやれ、ゆるさつしやれ。
▲大名「やるまいぞ、やるまいぞ。

底本:『狂言記 下』「狂言記外編 巻の三 四 附子

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底本頭注
 1:附子――毒物也。「ぶし」とも云ひ、とりかぶとの根に生ず。
 2:領じられたか――「取り付かれたかして」。
 3:名残の云々――曲にかゝる。
 4:わごれ――「わごりよ」に同じ。「汝」也。
 5:下されたれども――「戴きたれども」の意。
 6:一口食へども云々――曲にかゝる。