解題
盲になつた男、川上の地蔵へ願に行く。悋気深き女房、目あきて帰れる夫を苦しむ。
川上地蔵(かはかみぢざう)
▲目くら「これは、このあたりに住む者ぢや。ふと目をわづらうて、盲(めくら)になつた。迷惑な事ぢや。川上の地蔵へ、いかやうの事も祈請をかくるに、かなはぬ事はないと申す。目の願に参らう。女ども、ゐるかゐるか。
▲女房「何事でおぢやるぞ。
▲目くら「もはや、目の養生、色々とすれども、よくならぬ。この上は、神仏(かみほとけ)を頼うで見うと思ふが、何と思ふぞ。
▲女房「いかにも、神仏次第が、好うおぢやらう。
▲目くら「川上の地蔵へ、いかやうの願をかけてもかなふと、人々のおしやる程に、七日籠つて、目のあくやうに致さう。
▲女房「いかにもいかにも、尤でござる。こなたの目の見えぬ事が、朝夕、妾(わらは)も苦になりまする。
▲目くら「目が見えねば、死んだがましぢや。
▲女房「まづ、お地蔵様へ七日籠らせられい。おれもつれだつて籠りまして、湯茶でも進ぜう。
▲目くら「いやいや、そなたが籠つては、子供をしやうやうがない。留守してたもれ。
▲女房「まことに、子供の為ぢや。留守致さう。
▲目くら「追付(おつつけ)まゐる。やがて下向いたさうぞ。
▲女房「めでたく目があいて、戻らせられい。待ちまするぞ。さらばさらば。
▲目くら「女房どもは、殊の外悋気深い者で、一日も手ばなれしはせまいと思うたが、嬉しや、合点して、籠れと云ふ。急いで参り、祈誓かけて見まうせう。おれが因果なれば、是非もなし。わづらひならば、お地蔵のおかけで、目のあく事もあらう。夥(おびたゞ)しい参りさうな。これぢや。拝みませう。さらば籠りませう。はあはあ、あら尊(たふと)や。あらたに御霊夢がござつた。はや目があきました。かたじけない。うれしや、うれしや。内々聞き及うだより、あらたなお地蔵様ぢや。南無地蔵南無地蔵。かたじけない。女房共も、満足に思ひまうせう。子供もさぞさぞ喜ぶであらう。
▲女房「こちの人は目が見えぬところで、川上のお地蔵様へ、一七日こもると申して、参られた。心もとなう存ずる。見舞ひませう。何と、目がお地蔵様のお蔭であけかし。これはこれは、はや下向さしらるゝ。
▲目くら「そなたはどこへ。
▲女房「きづかひに思うて見舞に参る。
▲目くら「ようこそわせたれ{*1}。お見やれ。目があいて、昔よりよい目になつたわ。
▲女房「やれやれ、嬉しや嬉しや、めでたい事や。
▲目くら「さればされば、お地蔵様の、あらたな御夢想で、そのまゝ目が明(あきら)かになつておぢやる。
▲女房「そなたは五六日も断食をしておぢやると聞いたによつて、いとしやいとしや、瘠せ衰へて、ひだるからうと思うたが、殊の外色もよし、つやつやして戻つたが、合点が参らぬ。
▲目くら「目のこの如くに、明かになる程の事ぢやところで、ひだるうも少しもなし。なるほど、ひふもよいと思はしませ。
▲女房「いやいや、只事ではない。がてんが参らぬ。
▲目くら「神仏のおかけぢやところで、たゞ事ではない筈ぢや。
▲女房「おのれ、知らぬと思ふか。わ男め、内々聞き及うだ。誰(た)そ、酒や肴、色々の物を持つて(い)行て馳走してがあらう。
▲目くら「そなたより外に、誰が見舞ひまうせうぞ。わけもない事いはしますな。
▲女房「腹だちや腹だちや。おれに隠し居つて、さいさい寄合(よりあ)うて、知つた知つた。にくいやつの。はらだちやはらだちや。
▲目くら「さてもさても無理な事いふ女房ぢや。弓矢八幡、わき心はないぞ。
▲女房「いやの空誓文(そらぜいもん)や。ありのまゝに、隠さずとも、云ひ居るまいか、云ひ居るまいか。
▲目くら「はあはあ、又目がつぶるゝ。かなしやかなしや。
▲女房「おのれ、つぶれもせぬ目をつぶしたと云うて、だまさるゝ事ではないぞ。
▲目くら「だまさう事ではない。かなしや、真実つぶれたわ。
▲女房「そら目をつぶすか{*2}。腹の立つことや立つことや。何がつぶれうぞ。
▲目くら「いやいや、どこがどことも見えぬぞ。ゆるせゆるせ。
▲女房「どこへ。やるまいぞやるまいぞ。
▲目くら「ゆるせゆるせ。
底本:『狂言記 下』「狂言記外編 巻の三 五 川上地蔵」
底本頭注
1:わせたれ――「わせ」は「来る」の意。「おはす」の略也。
2:そら目――「うその目」。
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