解題
大峯葛城より下向の山伏、途に柿を盗み食ふ。柿主、見つけていろいろとなぶる。山伏、遂に祈りを始む。
柿山伏(かきやまぶし)
▲山伏「《次第{*1}》大峯葛城踏分(ふみわ)けて、わが本山に帰(か)へらん。
罷出でたるは、大峯葛城に参詣いたし、只今下向道でござる。よき序(ついで)なれば、檀那廻(まはり)をいたさうと存ずる。まづまづそろそろ参らう。やれ扨、何とやら物欲しう存ずるが、まだ先の在所は程遠さうにござる。何と致さうで。いえ、此処に見事な柿がござるほどに、一つ取つて食べうと存ずる。
▲柿主「罷出でたるは、この辺(あたり)の者でござる。今日(こんにち)も行(い)て又柿を見舞はうと存ずる。何と致してやら、鳥がついて迷惑致す。いえ、こゝな、鳥が食ふかして、蔕(へた)が落ちたが。わゝ、核(さね)も落つるが、上に鳥が居るか。いえ、山伏が上(あが)つて居るが、何と致さうぞ。いや、彼奴(きやつ)をなぶりませうぞ。はあ、上に猿奴(め)が上がつて居る。
▲山伏「はあ、柿主奴(め)が見つけ居つた。何と致さうぞ。
▲柿主「はあ、あれは猿ぢやが、身ぜせりをせう事ぢやが、身ぜせりせぬ。異(い)な事ぢや。
▲山伏「わ、某(それがし)を猿ぢやと云ふが、はあ、こりや身ぜせりしませうず。
▲柿主「ふん、猿に紛(まが)ふ所はない。猿なら啼かうぞえ。
▲山伏「はあ、こりや啼かざなるまい。きやきや。
▲柿主「はあ、猿に紛ふ所はない。猿かと思へば犬ぢやげなわいやい。
▲山伏「はあ、又こりや犬ぢやといふ。
▲柿主「犬なら啼かうぞよ。
▲山伏「はあ、又こりや啼かざなるまい。びよびよ。
▲柿主「はあ、犬ぢや犬ぢや。犬かと思へば鳶ぢやげなわいやい。
▲山伏「はあ、又こりや鳶ぢやといふ。
▲柿主「鳶なら飛ぼぞよ。
▲山伏「飛ばざなるまい。
▲柿主「鳶なら飛ぼぞよ、鳶なら飛ぼぞよ、鳶なら飛ぼぞよ。ありや飛んだわ。
▲山伏「あ痛、痛。やいそこな者、某が木のそらに居れば、貴(たつと)い山伏を、いや犬で候の、猿で候のと云うて、なぜに腰を抜かしたぞ。急いでくすろうて返(かや)せ{*2}。
▲柿主「やい其処な者、柿を喰(く)て恥(はづか)しくば、御免なれと云うて、おつとせで往(い)ね{*3}。
▲山伏「やい其処な者、山伏の手柄には、目に物を見せうぞよ。
▲柿主「柿盗みながら小言を言はずとも、急いで往(い)ね。
▲山伏「定(ぢやう)云ふか。物に狂はせうが。
▲柿主「山伏おけ。なるまいぞ
▲山伏「定云ふか。それ山伏といつぱ、役(えん)の行者の跡を続(つ)ぎ、難行苦行、こけの行をする。いまこの行力(ぎやうりき)叶はぬかとて、一祷(いのり)ぞ祷(いの)つたり{**1}。
橋の下の菖蒲は、誰(た)が植ゑた菖蒲ぞ。
▲柿主「やい山伏、可笑い事せずとも往(い)ね。
▲山伏「やい、定云ふか。も一祷(いのり)ぞ祷つたり。ぼうろぼんぼうろぼんぼうろぼん。そりや見たか、山伏の手柄には、物に狂ふは手柄ではないか。
底本:『狂言記 上』「狂言記 巻の三 五 柿山伏」
底本頭注
1:次第――例の如く曲にかゝる。
2:くすろうて――「薬す」、即ち、療治すること。
3:おつとせで――「音せで」、即ち「そつと」といふ意なるべし。
校訂者注
:底本は「祷つたり。▲山伏「橋の下の」。
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