解題
花のしんをとりに東山へ行く殿と冠者、見事な花の心を持ち行く東山の男にあひ、無理に貰ふ。
心奪(しんばひ)
▲との「このあたりの者。今日は東山あたりへ、花の心を取りに参らう{*1}。冠者あるか。
▲冠者「お前に。
▲との「今日は、東山へ花の心を取りにゆかう程に、汝来い。
▲冠者「畏つた。
▲との「好い心を取りたいな。
▲冠者「随分見繕ひませう。
▲山の者「これは東山の者でござる。花の心を約束致いてござる。持つて参らうと存ずる。
▲冠者「申し。見事な心を持つてまゐる。
▲との「あの心程見事な心は稀な。
▲冠者「某貰ひませう。
▲との「人の持つてゐるを、聊爾に貰はれはせまい。
▲冠者「まづ、貰うて見ませう。
▲山の者「それなら貰うて見よ。
▲冠者「丸腰では、いかゞでござる。お腰の物を貸さしられい。
▲との「心得た。
▲冠者「なうなう、見事な心を持つてござる。
▲山の者「人に約束して持つて参る。
▲冠者「その心を下されい。
▲山の者「これはなりませぬ。
▲冠者「貰ひかゝつてから、是非とも貰はねばならぬ。
▲山の者「無理な事云ふ人ぢや。ならぬ。
▲冠者「どうでも貰はねばならぬ。
▲山の者「やる事はならぬ。
▲冠者「申し申し、取つてござる取つてござる{**1}。
▲との「でかいたでかいた。
▲冠者「好い心でござる。
▲との「今の刀は。
▲冠者「やあ、刀はあちへ取つたと見えました。
▲との「心を取つても、刀を取られて、役にたつものか。
▲冠者「あまり遠くはまゐるまい。これに待つて、刀の事は云ふにおよばず、丸裸にしてとりませう。
▲との「見知つたか。
▲冠者「よく存じた。
▲山の者「一段よい仕合(しあはせ)ぢや。かへりませう。
▲冠者「あれあれ、つかまへさしられい。
▲との「がつきめ。やるまいぞ。
▲山の者「何事をするぞ。
▲冠者「縄を綯ひまする。ようつかまへてござれ。
▲との「心得た。
▲山の者「はなせはなせ。
▲との「おのれ、こゝへはいれ。
《ふみこかす。》
▲山の者「きついやつぢや。
▲との「早う縄をかけい縄をかけい。
▲冠者「心得ました。かけましたかけました。
▲との「やい逃ぐるわ。どこへ。やるまいぞやるまいぞ。
底本:『狂言記 下』「狂言記外編 巻の三 七 心奪」
底本頭注
1:花の心(しん)――生花の心にする草木。
校訂者注
1:底本に句点はない。
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