解題
北野の縁日に社参の殿と冠者と、途中出遇ひし男の太刀を取らんとす。
太刀奪(たちばひ)
▲大名「罷出でたるは、隠れもない大名。太郎冠者(くわじや)あるか。
▲冠者「御前に。
▲大名「念なう早かつた。汝を喚び出だす余の義でない。今日(こんにち)は北野の縁日、社参致さう。供に参れ。
▲冠者「畏つてござる。
▲大名「来い来い。
▲男「罷出でたるはこの辺(あたり)の者でござる。頼うだ人を迎(むかひ)に参らうと存ずる。
▲大名「やい冠者、あれ何者やら、手に太刀を提(さ)げて通る。汝にも持たせて、供に連れたらよからうものを。
▲冠者「申し殿様、彼奴(きやつ)が提げて居る太刀を、身共取つて参りませう。
▲大名「をゝ、行(い)て取りて来い。
▲冠者「お前のその刀を、おこさつしやれませい。
▲大名「こりやこりや、急いで取つて来い。
▲冠者「畏つてござる。がつき遁(のが)すまいぞ{*1}。
▲男「心得た。おのれその抜いてかゝつた刀をば、よこしをるまいか。
▲冠者「あゝ、進ぜませう、進ぜませう。
▲男「鞘に納めておこし居ろ。
▲冠者「あゝ。
▲男「いやその柄頭(つかがしら)の方を差出せ。
▲冠者「厭ならおきやいの。
▲男「定(ぢやう)おこし居るまいか。
▲冠者「あゝ、進ぜませう。
▲男「はあ、こりや好い仕合(しあはせ)でござる。
▲冠者「殿様々々、取りました取りました。
▲大名「どりや。
▲冠者「刀をあちへ取りました。
▲大名「やい、それは重代ぢやが、とつと行(い)たか、取り返(かや)そ。来い来い。
▲冠者「ありやありや、彼奴(あいつ)でござる。
▲大名「黙れ黙れ。さあ捕(とら)まへたは。
▲男「こりや何とする。
▲大名「何とすると事があるものか{*2}。やい冠者、その太刀も、刀も取れ。
▲冠者「はあ、取りました。
▲大名「その縄をこしらへえ。
▲冠者「畏つてござる。まじつへいあてませう{**2}。
▲大名「やい、縄をおこし居れやい。
▲冠者「はつ。ぢつと捕まへてござりませいの。縄綯(な)ひまするわいの。
▲大名「早う綯ひ居れ。
▲冠者「まづおのれ、この縄にこすりをかけて。
▲大名「やい其処な奴、何とするぞ。縛れいやい。
▲冠者「待たしやれませいの。さあ、おのれ此処へ足を入れ居れ。はあ、臑(すね)の利いた奴ぢやわ。
▲大名「やれ何とし居りや。それ首へ掛けいやい。
▲冠者「心得た。こりや掛けたい{**3}。
▲大名「いや、こりやおれぢやが。
▲冠者「はあ、殿様でござるか、許さしやれませい。
▲大名「やるまいぞやるまいぞ。
底本:『狂言記 上』「狂言記 巻の三 七 太刀奪」
底本頭注
1:がつき――「餓鬼」也。人を罵り云ふ詞。
2:と事が――「といふ事が」。
校訂者注
1:底本は「とつと行たか 取り返そ」。
2・3:底本のまま。
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