解題
嵯峨へ参る勾当の坊ときく一と、途中、川を渡る。道行人、いたづらをなす。
どぶかつちり
▲勾当「罷出でたるは、この辺(あたり)に住居(すまひ)仕る勾当の坊でござる{*1}。さやうにござれば、今日はきく一を連れ、嵯峨へ参らうと存ずる。きく一あるか。
▲きく一「これに居りまする。
▲勾当「其方(そなた)を呼び出すは別のことでもない。嵯峨へ参らうと事ぢやが、参りやらぬか。
▲きく一「勾当様の参らさしやれまするなら、参りませう。
▲勾当「おぢやれおぢやれ。
▲きく一「行きまする。
▲勾当「なう菊一。
▲きく一「何でござりまする。
▲勾当「竹筒(さゝえ)を持つたら{*2}、ようおぢやらうものを。
▲きく一「これに心得て持ちました。
▲勾当「ふん、好う気が付いた。おぢやれおぢやれ。
▲きく一「参りまする。
▲勾当「なう菊一、彼(あ)のとんとといふは川ではないか。
▲きく一「あゝこれはかい川と云ひまする。
▲勾当「いかう水が出たさうなぞや。
▲きく一「待たしやれませい、瀬踏(せぶみ)をして見ませう。石は無いかぢやまでい。いえ、あるわ。ま此処ヘ打つて見ませう。どぶどぶ。あゝいかう深さうな。上手(かみて)へ打つて見ませう。やえい。どぶり、かつちり。はあ勾当様、上(かみ)へ廻らしやれませい。上が浅うござりまするぞ。
▲勾当「やい菊一、負うて渡せ。
▲きく一「こな様も渡らしやれませいさて。
▲道行人「罷出でたるは道通(みちとほり)でござる。いや座頭が座頭を負うて渡すと見えた。某(それがし)が負はれて渡りませうず。
▲勾当「やい菊一、おのれを連れるは、この様な川なども、負はれて渡らうと思うて連れゝ。急いで負へいの。
▲きく一「こゝへござりませい。あゝいかう深うござりまするぞ。やうやうの事して渡つたよ。
▲道行人「やれ扨、まんまんと負はれて渡りました。
▲勾当「やい菊一、おのればかり渡つて、なぜに某をば置いて行(い)たぞいやい。
▲きく一「わ、勾当様、又今のほど負ひ越したに、足のまめな、なぜに又そちらへ行かしやつたぞ。はれ扨物好(ものずき)な、目の見えぬ者をば、あちらへこちらへさするが面白いかぢやまでい。さ負はれさつしやれい。いえ扨又、負はれさつしやれ。面白ござろの。
▲勾当「何を云ふぞいやい。
▲きく一「何いふと事があるものでござるかいの。はゝ、深い所へはいりましたわいの。
▲勾当「これおどれ{*3}、何事仕居(しを)つたぞ。
▲きく一「転びましたわいの。
▲勾当「やれ扨くつと濡らし居つた。
▲きく一「はじめので置かつしやりやよい事、二度三度さつしやる所で、えゝ、濡れて寒(さぶ)やな。
▲勾当「やい菊一、今の竹筒(さゝえ)は流れはせなんだか。
▲きく一「腰に結(い)はへ著(つ)けて置きました。
▲勾当「どりや一つ飲まうに。
▲きく一「わしもたんませう{*4}。参りませい。
▲道行人「いや座頭が酒を飲む体(てい)でござる。負はれた上に、又酒も飲みませう。
▲きく一「勾当様、参りませう。ちやうとござりまする{*5}。わしも一つ飲(た)べませうよ。
▲勾当「やい其処な奴、おれにもくれいで、なぜに飲むぞい。
▲きく一「今のほど、こしめしてから{*6}、飲み隠しばかりさつしやる。
▲勾当「飲まう事わい。
▲きく一「いやこれ参りませいの。ござりまするか。又私もたべませうよ。
▲勾当「やい菊一、わればかり飲むか。なぜにおれにはくれぬぞい。
▲きく一「これもござらぬは{*7}、樽かぶらしやれい。
▲道行人「扨も扨も、座頭といふものは面白い者でござる。ちと諍(いさか)はしませう。
▲勾当「やい此処な菊一めは、酒くれぬのみならず、汝(おのれ)はなぜにくはせたぞ。
▲きく一「勾当様飲み隠しさつしやるさへぢやに、何とさつしやる。
▲勾当「いや。おのれ憎い奴の。
▲きく一「これやなんとめさるぞい。
▲勾当「扨も扨もよい慰(なぐさみ)でござる。どづいて諍はする{*8}{**1}、こんな面白い事はござらぬ。
▲きく一「なう勾当様、今のを聞かしやつたか。
▲勾当「さればいやい、今思ひ附けた。
▲きく一「酒飲うだり、くはしたり、負はれたも彼奴(あいつ)でござりませう。
▲勾当「菊一、捕(とら)まえ。
▲きく一「勾当様ござりませい。おのれ何処に居るぞ。
▲勾当「やるまいぞやるまいぞ。
▲道行人「わゝ{*9}。
底本:『狂言記 上』「狂言記 巻の三 八 どぶかつちり」
底本頭注
1:勾当(こうたう)――盲官の一にて、検校と座頭のと間なり。
2:竹筒(さゝえ)――酒器。
3:おどれ――「おのれ」に同じ。
4:たんませう――「たべませう」。「飲まう」。
5:ちやうと――酒の盃に満ちたる形容。
6:こしめして――「きこしめして」の略か{**2}。
7:ぬは――「ずば」の意に解すべし。
8:どづいて――「打つて」。
9:わゝ――笑声。
校訂者注
1:底本に読点はない。
2:底本は「こしめして――きこしめしの略か」。
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