解題
一名「雁盗人」。永々在京の大名、国へ下るに当たり、ふるまひの肴に雁を得んとて、冠者と謀り、とり屋より鳥を奪ふ。
雁大名(がんだいみやう)
▲大名「八幡(まん)大名。永々在京した所に、新知を大分くだされ、やがて国へ下(くだ)る。冠者あるか。
▲冠者「お前に。
▲大名「やいやい、やがて国へ下る。皆々様をふるまひたいが、肴どもがあるか。
▲冠者「いや、お肴物は、只今何もござりませぬ。
▲大名「それならばさかなだなへ行(い)て、よい肴物を買うてまゐれ。
▲冠者「畏つてござる。
▲大名「やがて来い。
▲冠者「心得ました。人をふるまふに、今さかな棚へ行(い)て買うて来いとおしやる。まづ行て見まうせう。さかな棚ぢや。何も無いよ。
▲とりや「雁(がん)は雁は。
▲冠者「よい物がある。雁買ひまうせう。
▲とりや「売りまうせう。
▲冠者「好い鳥か。
▲とりや「新しい鳥でおぢやる{**1}。
▲冠者「値段は何程(なにほど)ぞ。
▲とりや「二百疋ぢや。
▲冠者「新しい鳥ならば、それに買ひまうせう。
▲とりや「売りまうせう。これこれ、代物(だいもつ)は。
▲冠者「代物とは。
▲とりや「鳥をこちへおこしやれ。
▲冠者「冠者を知らぬか。
▲とりや「何として知らうぞ。
▲冠者「代物持つて取りに参らう。その鳥まづ、棚を引いてたもれ。
▲とりや「心得た。
▲冠者「おこさぬが、尤ぢや。帰つて代物取つて参らう。ござるかござるか。
▲大名「冠者、さかながあるか。
▲冠者「雁がござる。
▲大名「よい物がある。早う毛をひいて。
▲冠者「まをし、肴だなにござる。
▲大名「それが役にたつか。
▲冠者「代物やらねば、鳥をおこしませぬ。
▲大名「身が内の冠者と云はぬぞ。
▲冠者「見知らぬと申して、なかなかおこしませぬ。代物下され。
▲大名「もはや手前にない。そちがところに有らばやれ。
▲冠者「其の方(かた)にもござらぬ。
▲大名「やがて客衆のお出ぢや。
▲冠者「やあ、延べるやうになされいで。
▲大名「どうぞ頼む。鳥をまづ取る分別してくれい。
▲冠者「それは迷惑な事でござる。思ひ出しました。御前の、さかなだなへお出あそばして、雁をいか程にも、肴屋が云ふ程に、お買ひなされまうせい。
▲大名「でも代物が無い。
▲冠者「某の、代物持つてまゐらう、たなをひけと約束申した。もはや久しうなる程に、店へ鳥を出しまうせう。そこへ某のまゐり、代物持(も)て来た、鳥をとつて帰らうと申すと、お前に高う売つたところで、もはや売つたと申しまうせう。約束ぢや、わきへは売らせぬと申す時に、お前のしからしられませうず。某も腹をたてて、喧嘩に致しまうして、お前に取付きましてゐるうちに、鳥をとり申して退(の)きませう。
▲大名「これはよい分別が出た。魚棚の何軒目ぞ。
▲冠者「角屋から四五軒目かと存ずる。
▲大名「もはや行く。そちもよい時分に来てくれい。
▲冠者「畏つた。
▲大名「分別のよい冠者ぢや。さかな町の角屋から、四五軒の内ぢや。これにある。
▲とりや「雁は雁は。
▲大名「さかな屋、雁買ひ申さう。
▲とりや「上げませう。
▲大名「ねだんは。
▲とりや「五百疋でござりまする。
▲大名「買ひ申さう買ひ申さう。
▲冠者「肴屋殿、代物持つて来た。鳥を取つて参らう。
▲とりや「遅いによつて、お大名様に上げた。ならぬ。
▲冠者「それがしがせんさきぢや{*1}。買はねばならぬ。
▲大名「やいやい、にくいやつの。身が買ひ取つた鳥を、なぜ手をかくる。
▲冠者「某が先(せん)ぢや。取つて行く。
▲大名「横著(わうちやく)なやつの。ひとうちにしてのけう。
▲冠者「某も主持(しうもち)ぢや。なるまい。
▲とりや「お前様へ鳥はあげませう。ゆるさしられい。
▲大名「聴くことでない。
▲とりや「雁さへ上げますれば、おゆるしなされい。
▲大名「ゆるすゆるす。
▲とりや「鳥をぬすまれたわ。
▲大名「冠者は何と。
▲冠者「申し申し。
▲大名「取つたか取つたか{**2}。
▲冠者「取り申した取り申した。
▲大名「早うこしらへい。
▲冠者「お前様、早いことをなされた。
▲大名「刀の柄に手をかけて、喧嘩の次第がはやかつたか。
▲冠者「いや、棚の端(はた)へ手をやつて、はやいお事でござる。
▲大名「そちは見附けたか。
▲冠者「見附けました。
▲大名「国への土産にせう物がないによつて、これこれ、これを取つたわ取つたわ。
▲冠者「それがし、鳥を盗み申した。
▲大名「さあさあ、笑へ笑へ。
▲冠者「心得ました。
底本:『狂言記 下』「狂言記外編 巻の四 一 雁大名」
底本頭注
1:せんさき――「先」の音訓を重ねて云ふ。
校訂者注
1・2:底本に句点はない。
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