解題
 一名「舎弟」。舎弟といふは盗人の唐名なりと騙されし弟、帰りて兄と喧嘩す。

兄弟諍(きやうだいいさかひ)
▲弟「このあたりの者、某(それがし)兄を一人持つてござるが、参るたびに、舎弟か、よく来たよく来たと申さるゝ。この事を知らぬところで、不審な。この近所に与兵衛殿と申して、御懇(ごねんごろ)になされて、万事に心得てござる。これへ参り、よい事か、わるい事か、習うて参らう。宿にござらうか。今日は一段よい天気ぢや。まゐる程にこれぢや。ものも。与兵衛殿ござるか。
▲与兵衛「案内とは誰ぢや。
▲弟「某でござる。
▲与兵衛「何と思うておぢやつた。
▲弟「只今お見まひ申すは、別なる事でござない。こなた様も知られた如く、兄を一人持ちました。見舞に行けば、私を見ると、舎弟々々と、申さるゝ。これはいかやうの事ぞ、習ひませうと存じて、お見舞申してござる。教へて下されい。
▲与兵衛「わごりよは知るまい。物の本に書いてある。見て教へまうせう。
▲弟「かたじけなうござる。頼みまする。
▲与兵衛「しばらくそこに待ちておぢやれ。
▲弟「心得ました。
▲与兵衛「なかなかの事ぢや。ちとなぶつて、いさかはしまうせう。なうなう。
▲弟「何と、よいことか、悪い事でござるか。
▲与兵衛「その方が腹を立てまいならば、云うてきかしまうせう。
▲弟「いやいや、腹立てる事ではござらぬ。さては悪い事でござりまするか。
▲与兵衛「盗人の唐名(からな)を舎弟と申す{*1}。
▲弟「兄めがにくい事を申す。某はぬす人をしたことはござらぬ。もはや参る。
▲与兵衛「これこれ、必ずおれが教へたと云ふな。諍(いさかひ)せまいぞ。
▲弟「いやいや、いさかひは、つかまつるまい。さらばさらば。さてもさてもにくい。すぐに行(い)て、兄に恥かゝせませう。申し申し、兄御(あにご)内にか内にか。
▲兄「舎弟来たか。
▲弟「しやていぢや。
▲兄「何と、喧嘩でもしたか。機嫌がわるい。
▲弟「知らぬと思ふか。おれはしやていした事はない。そなたこそ、さいさいしやていしたれ。
▲兄「おれがしやていしたとは。
▲弟「云うて恥かゝせ申さう。いつぞや、天目(てんもく)を盗んで来た{*2}。こちのかたでは、てんもくしやていと申す。
▲兄「おのれ兄のこと、その様な、無いこと云ふか。
▲弟「ないことぢや。また牛を盗んだことがあるぞ。
▲兄「あらば聞かう。
▲弟「ついでに申さう。斑牛(まだらうし)を盗んで、白いところを墨で染めて売つた。おれらが方(かた)では、てんもくしやていの、まだらじやていと申す。
▲兄「おのれ、何とがなせうぞ。腹だちや。
▲弟「兄でもすまふに負けうか。お手つ。兄でもなるまいぞなるまいぞ。

底本:『狂言記 下』「狂言記外編 巻の四 四 兄弟諍

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底本頭注
 1:盗人の唐名(からな)を舎弟――出鱈目を教へてなぶる也。
 2:天目――茶の湯の茶碗。