解題
女房に打ち殺すと罵られし男、山に行きて鎌にて腹を切らんとす。女房、悲しみて詫び、男を負ひて帰る。
鎌腹(かまばら)
▲男「あゝかなしやかなしや。助けい助けい。ゆるせゆるせ。
▲女房「おのれ打殺してくれう。
▲隣の者「これこれ、女の何とした事ぞ。
▲女房「あいつめに、山へ行けと申せば、いかずして、三十日を三日とも内に居ずに、遊び歩きまする。退(の)かしられい、打殺しまする。
▲男「とりさへて下されい{*1}。
▲隣の者「某が山へ行くやうに云はう。これこれ、再々女にその様に追はれて、逃げあるく事は見苦しい。なぜに三十日を三日も内にゐず、山へも行かぬぞ。山へも行かしめ。
▲男「まづ、命の親ぢや。忝い。山へまゐる。よそへ参るも、だんなさま方へ、某の稼(かせぎ)でまゐる。慰(なぐさみ)ではござらぬ。
▲隣の者「尤ぢや。早う山へ行かしめ。
▲男「あの鎌や棒を取つて下されい。
▲隣の者「心得た。なうなう、内に居ぬも稼(かせぎ)のため也。山へも行くと云ふ。棒や鎌をこちへおこさしめ。
▲女房「早うやらしられて下されい。
▲隣の者「心得た。急いで山へゆけ。
▲男「参る。まづまづ、おかけで命助かりました。忝い。急いで山へ行かう。さてさて、女どもが、またもまたも追ひ走らかす。足ばやに逃げて、たゝかれぬがましぢや。山へ来たが、よくよく案ずるに、女房にまたもまたもたゝかれ、逃げまはるも口惜しい。腹を切つて、山で死にまうせう。この鎌で切らうが、これはどぎどぎとして痛さうな。あいたあいた。いやいや向(むかふ)な木に結(ゆ)ひつけて、走りかゝつて切りまうせう。側(そば)へ参れば、腹へあの鎌がはいると、痛からうと思うて切られはせぬ。目で見る所でわるい。目をふさいでとびかゝり、くわらりと切つて死にませう。やいやい女ども、只今おれは腹を切るが、おのれ後に悔(くや)みをらうぞ。なうなう女どもに、只今腹を切ると云うてたもれ。
▲女房「何と、妾(わらは)が所の人が、山で腹を切つて死ぬると云ふか。やれやれ、かなしやかなしや。誰ぞさへてくだされ{*2}。頼みまする。
▲男「とびかゝつて、くわらくわらと腹を切つて、女が面(つら)へ投げつけてのけまうせう。
▲女房「なうなう、これは何事をするぞ。
▲男「何事とは。おれせびらかしたがよいか。汝が面(つら)へはらわたを投げつけて死ぬる。のけのけ。放せ放せ。
▲女房「離すことはならぬ。今度からわごりよの云ふ様にせう程に、こらへて戻らしめ。
▲男「いやいや、おぬしが云ふ事聞きはせまい。腹を切る。はなせはなせ。
▲女房「いかやうとも、おしやる様にしませう。こらへてたもれ。
▲男「何事もおれが云ふやうにするか。
▲女房「なかなか。仰しやる如くに致さう。
▲男「それならば、もはや腹切るまい。
▲女房「やれやれうれしや{**1}、いとしの人や、おぢやれ。負うていなう。
底本:『狂言記 下』「狂言記外編 巻の四 五 鎌腹」
底本頭注
1:とりさへて――「仲裁して」也。
2:さへて――「止めて」也。
3:せびらかした――強請すること。
校訂者注
1:底本は「うれしや いとしの」。
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