解題
 一名「人か杭か」。臆病者の冠者、主人の留守に夜廻りし、杭が物いふ。

杭(くひ)か人(ひと)か

▲主「この辺(あたり)の者。冠者(くわじや)めが方々(はうばう)へ参りて、てがらだて云うて、皆々様をだますと、いづれものお話ぢや。づつと臆病なやつぢや。致しやうがある。冠者ゐるか。
▲冠者「お前に。
▲主「身共四五日、さる方へ参る程に、そちは一人留守におく。その分心得。
▲冠者「いや、お供にまゐりませう。
▲主「供に連れいでも大事ない。用心して留守せい。
▲冠者「先で御用もあればいかゞな。めしつれられい。
▲主「いらぬ。留守せいと云ふに。
▲冠者「でも、この屋敷に、一人留守はなりますまい。
▲主「汝を一人おけば、百人おいたより、よい留守ぢや。おねしが常常てがらした事を、何れも様へ話すと、皆々の仰せらるゝが、うそか。臆病者ぢや。
▲冠者「まづさやうには申したものでこそござれ。百人留守したよりましぢやと、思召(おぼしめ)すは嬉しうござる。
▲主「さあさあ、その通(とほり)よう留守をせい。
▲冠者「五十人百人いか様の者が来ても、手元へ寄する事でもござらぬ。
▲主「一騎当千ぢや所で、一人留守に置く。乃ち鎗があるほどに側(そば)におけ。
▲冠者「鎗もいる事ではござない。
▲主「やがて四五日してかへらう。
▲冠者「ゆるりとあそばしられい。
▲主「よう留守せい。
▲冠者「畏つてござる。南無三宝、旦那殿ははや行かれたが、迷惑な事ぢや。いらぬことを云うて、にがにがしや。ひろびろとした屋敷に、一人留守はいやぢや。はや日も暮るゝ。槍をかたげて屋敷を廻らう。もはや五つ過ぎぢや{*1}。あゝ暗や暗や。御用心々々々。何者ぞゐぬか。あゝこそこそと云うた。暮れて暗い。何が居るも見えぬ。さればされば、何者やらゐるぞゐるぞ。あゝこはい事や。胴がふるうて物が云はれぬ。よくよく見れば、槌ぢやもの。びつくりした。迷惑な。廻りまうせう。
▲主「冠者めに留守をいうつけた。様子見にまゐらう。はあ、夜廻(よまはり)して独言(ひとりごと)を云ふ。臆病者ぢやが、奇特に夜廻してゐる{*2}。
▲冠者「南無三宝、何やらあるぞ。おそろしい。どうしたものであらうぞ。内へはいることもならず。いや、よくよく見れば、杭か知らぬ。やいやい、そこなは人か杭か、人か杭か。
▲主「杭ぢや。
▲冠者「杭なら、物を言はぬ筈ぢやが、合点がいかぬ。いやいや、人さうな。あゝこはや。まづ此槍で突かう。くつさりくつさり。ああかなしやかなしや。助けて下され助けて下され。命さへ御助けなされうなら、宝物どものあり所を教へませう教へませう。
▲主「宝物のありどころ、ねんごろに教へ。命を助けう。
▲冠者「なかなか、教へませう。
▲主「真実か。
▲冠者「何しに隠しませうぞ。
▲主「定(ぢやう)か。
▲冠者「誠でござる。
▲主「冠者々々。おれぢや。
▲冠者「おれぢやとは。
▲主「おのれ、臆病者。 
▲冠者「おまへは、何としてこゝへは御出なされたぞ。
▲主「臆病なやつ。内々のてがらだてとは違うて、宝を皆々やらう。
▲冠者「こなたは、おれが心をためして見やうと思うて、なされたか。
▲主「常に、てがらだて云ふによつて試みた。臆病者め。
▲冠者「何事もない時は、いふたいこと、いふませいでわ{**1}。
▲主「そのつれなこと云ふ居るか{**2}。憎いやつの。あちへうせひうせひ。
《槍で突く。》{**3}
▲冠者「あゝかなしや。助けて下され助けて下され。
▲主「やるまひぞやるまひぞ。

底本:『狂言記 下』「狂言記外編 巻の四 六 杭か人か

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底本頭注
 1:五つ――今の午後八時。
 2:奇特――「神妙」。

校訂者注
 1・2:底本のまま。
 3:底本は「あちへうせひ(二字以上の繰り返し記号)。槍で突く。」。底本頭注に「槍で突く――注の文なるべし」とある。