解題
 大名、茶の湯にとて、冠者を連れ行く。川を渡るに、冠者、皸にて越されずといふ。大名、冠者を負うて渡り、深き所にてわざと落とす。

あかゞり

▲との「罷り出でたるは、この辺(あたり)の者でござる。さやうにござれば、さる方よりも、お茶を下されうとござる程に、のさものを喚出(よびいだ)し{*1}、申し付けうと存ずる。あるかやい。
▲冠者「はつ。
▲との「誰かある。
▲冠者「お前に。
▲との「念なう早かつた。汝を喚び出すは余の義でない。さるお方よりも、お茶を下されうとある程に、供の用意を致しませい。
▲冠者「最早(もはや)致してござる。
▲との「一段うい奴ぢや。来いこい、やい。いづれもの使はさる者どもは、茶の湯などとあれば、掃除に気をつくるといふが、汝はさやうの事はなるまいな。
▲冠者「いやはや、殿様にも、せつせつ数寄を遊ばされまするならば、ぬかりは致しますまい。
▲との「おう、それよそれよ。やい、これはいつなれぬ所に、いかい大水が出たな。
▲冠者「はゝ、上(かみ)が降つたものでござりませう{**1}。殊の外な洪水でござる。
▲との「やい、急いで負ひ越せ。
▲冠者「お前負ひますることはさて置いて、身ども一人もえ渡りますまい。
▲との「なぜにさやうに申すぞ。
▲冠者「そのお事でござりまする。慮外な義でござりますれども、皸(あかぎれ)がござりまする処で、そつとも水の中へは、え這入りませぬ。
▲との「いやいや、皸などには、水がかゝれば、殊の外和らいで好いと云ふ沙汰を聞いた程に、急いで負ひ越せ。
▲冠者「いや、人のはどうござつても、身どもがは、少しなりとも水がかゝりますると、六根へこたへて疼(うづ)きまする。唯今お手討になると申しても、え渡りますまい。
▲との「何ぢや、手討になるともえ渡るまい。
▲冠者「はつ。
▲との「それに待ち居ろ。やれ扨、彼奴(きやつ)めは常に横道者(わうだうもの)でござる程に、又かれいのかたを申すものでござろ{*2}。ならぬ事を申しつけうと存ずる。やい冠者、確(しか)とえ渡るまいな。
▲冠者「はつ。
▲との「いや、其義ならば、某(それがし)が負ひこうわいやい{*3}。
▲冠者「これは又、慮外なことでござりまする{*4}。
▲との「いやいや、苦しうない事があるぞ。歌を詠め。負うて渡そ。
▲冠者「いやはや、お歌はともかくもでござりまする。殿様に負はれまするが、何とも迷惑にござりまする。
▲との「いや、歌だに詠めば、けふの歌人のうちぢやによつて、負うて苦しうない。急いで詠め。
▲冠者「さらばちと按(あん)じませう。
▲との「いかほども按じよ。
▲冠者「はあ。かうもござりませうか。
▲との「はや出てあるか{*5}。
▲冠者「は。
▲との「何と。
▲冠者「あかゞりも春は越路に帰れかし{*6}、冬こそあしのもとに住むともと、致してござる。
▲との「おう、一段出来(でけ)た。も一句急いでよめ。
▲冠者「いや、最前さへ汗かきましてござる。
▲との「いやいや、そちが口では、汗かく口ではない。急いで詠め。
▲冠者「かうもござりませうか。
▲との「何と。
▲冠者「あかゞりは弥生の末のほとゝぎす、うづきわたりてねをのみぞなくと{*7}、いたしてござる。
▲との「おう、一段でかした。急いで負はれ。はゝ、これは何とする。
▲冠者「いや、戴きまする。
▲との「許すといふのに、負はれ居ろ。
▲冠者「畏つてござる。申し申し殿様、あゝいや、深さうにござりまする。上(かみ)か下(しも)かへ、廻らしやれませい。
▲との「気遣(きづか)ひんはすな。覚(おぼえ)があるぞ。
▲冠者「はゝ、あぶなうござります。
▲との「やい冠者、この川中で、ま一句聞きたうおぢやる。
▲冠者「いや、まづ、向(むかふ)へ越さつしやれませい。
▲との「実正(じつしやう)よむまいか。
▲冠者「あゝ、申し申し、詠みまする詠みまする。
▲との「急いで詠め。
▲冠者「かうもござりませうか。
▲との「何と。
▲冠者「あかゞりは恋の心にさも似たれ、ひゞにまさりて思はれぞする{*8}。
▲との「やい冠者、句は出来たが、おのれがやうなる慮外な奴は、この深い所で、まづかうしたがよい{*9}{**2}。
▲冠者「はゝ、南無三宝、爪先を濡らすまいとしたれば、盆の窪まで濡れた{*10}。しなしたる姿(なり)かな。

底本:『狂言記 上』「狂言記 巻の四 六 あかゞり

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底本頭注
 1:のさもの{**3}――「のさばりもの」。無作法なる冠者のことをいふ。
 2:又かれいのかた――「又もや例の横著(わうちやく)な事を」の意か。
 3:負ひこう――「負ひ越さう」の誤か。
 4:慮外なこと{**4}――「失礼」也。恐縮する意。
 5:出てあるか――「文句が考へられたか」。
 6:あかゞりも――「皸(あかがり)」に「雁(かり)」を掛け、「葦」に「足」を掛く。
 7:うづきわたりて――「疼き」に「卯月」を掛く。
 8:ひゞにまさりて――「ひゞ(皸の小さきもの)」に「日々」を言ひ掛く。
 9:かうしたがよい――水に陥(おとしい)るゝ也。
 10:盆の窪――襟首の真ん中の窪める所也。「頚窩」也。

校訂者注
 1:底本は「降つたものでござりまう」。
 2:底本は「まつかうしたがよい」。
 3:底本は「のさ者」。
 4:底本は「慮外な事」。