解題
狸を取りし冠者、主人にかくして市に行きて売らんとす。主人、途上に酒を買ひ、舞をまはせて狸を発見す。
隠(かく)し狸(だぬき)
▲主「このあたりの者。冠者(くわじや)ゐるか。
▲冠者「お前に。
▲主「そちはよい犬を持つて、狸をさいさい取ると云ふ。ちと某にもくれい。
▲冠者「犬はござれども、用心のためばかりに、飼ひまする。狸の事は存じも寄りませぬ。
▲主「皆々のよく知つて、いかな夜(よ)もいかな夜も、毎夜狸とる。ふるまひに狸一色(しき)で、御出なさるゝ約束ぢや。ゆうべ取つたをくれい。
▲冠者「あれば進じませうが、いかないかな、狸見たこともござない。
▲主「明日(みやうにち)御出の約束ぢや。市にあるか。見て調(とゝの)へてこい。
▲冠者「畏つてござる{**1}。
▲主「やがて来い。
▲冠者「はあ。せつかく隠したに、人の口と申すものは、戸が立てられぬとやらん云ふが、頼うだお方の耳に入つた。ゆうべも、大狸二つまでとつた。さいさい、狸くれい狸くれい。夫(それ)が厭ぢや。おれが狸売りにまゐらう。この様な見事な狸は稀な。売りまうせう。今日は一つも狸は見えまうせぬ。売りませう。狸は狸は。狸は狸は。大狸は大狸は。
▲主「冠者めが遅い。何してゐるぞ。さてさて、いかい市の立ちやうかな。
▲冠者「はあ、頼うだ者がわせた。まづ狸をかくしまうせう。
▲主「冠者、たぬきは。
▲冠者「今日の切物(きれもの)で{*1}、狸はござらぬ。
▲主「まことに見えぬ。市酒飲まう。酒を買ひに行(い)て取つて来い。
▲冠者「お宿でまゐりませい。
▲主「市で飲むが慰(なぐさみ)ぢや。買ひに行け。
▲冠者「おかしられい{*2}。
▲主「苦しうない。買うてうせい。
▲冠者「あゝ、酒買うて来ました。まゐれ。
▲主「飲まう。冠者も飲め。
▲冠者「いやいや。
▲主「ゆるりゆるり飲うでなぐさむ。一つ舞へ。
▲冠者「お宿で舞ひませう。御免(ごゆる)さしられい。
▲主「いやいや、市の中で、見るが面白い。舞ひをれ。
▲冠者「あゝ。
▲主「左右へまはれ。
▲冠者「此中(このぢう)も、御前(ごぜん)がかりには、左右へ廻らぬものぢやと申しまする。
▲主「いやいや、おれがゆるす。左右へまはれ。
▲冠者「慮外ぢやと申すほどに、なりますまい。
▲主「苦しうない。免(ゆる)す。まはれまはれ。
▲冠者「どうでも、廻ることは知らぬうちこそ。知つてはなりませぬ。
▲主「にくいやつの。廻つて舞はぬか。
▲冠者「舞ひまする。
▲主「なぜにまはらぬぞ。
▲冠者「まはりましても、見さしられねば、是非もござらぬ。
▲主「相舞にせう。
▲冠者「如何様とも御意次第。
▲主「それそれ、狸ではないか、狸ではないか。
▲冠者「いやいや。狸ではござない、狸ではござない。
▲主「やるまいぞやるまいぞ。
底本:『狂言記 下』「狂言記外編 巻の四 九 隠し狸」
底本頭注
1:切物(きれもの)――「品切れ」。
2:おかしられい――「止めになされ」。
校訂者注
1:底本は「畏つてござる、」。
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