解題
一名「鈍太郎」。久しく田舎に行きし鈍太郎、都にかへりて、上京の本妻、下京の若い馴染に、別の男を持ちしといはれ、出家せんとして、女どもの手車に載せらる。
手車(てぐるま)
▲どん太郎「これは、都に住む者。久々田舎へ行(い)て、只今上(のぼ)る。某は上京と下京に、宿をもつた。どちへまゐらうぞ{**1}。上京が本の女房ぢや。まづまゐらう。やいやい女ども、上つた。あけいあけい。
▲上京女「これの人は三年さきから、田舎下りして、たよりもない。あくる亊はならぬ。
▲どん太郎「尤ぢや。さりながら、仕合(しあはせ)よく上つた。あけい。
▲上京女「あまりおとづれもないによつて、棒遣(ぼうつかひ)を男に持つた。
▲どん太郎「某のゆるさぬに、男持つことはなるまい。
▲上京女「なうなう、人がなぶる。棒を持つて、腰の骨打折らしめ、腰の骨打折らしめ。
▲どん太郎「よいよい、下京に若い馴染(なじみ)がある。参らう。これこれ、鈍太郎が帰りまうした。あけいあけい。
▲下京女「又なぶり来た。鈍太郎殿は、三年さきから田舎へ下り、便(たより)もない。あける事はならぬ。
▲どん太郎「仕合(しあはせ)よくして、のぼりまうした。早うあけいあけい。
▲下京女「妾(わらは)長刀遣(なぎなたつかひ)を男にもつた。長刀にのせらるゝな{*1}。
▲どん太郎「某の合点せぬ、男持つことはなるまい。早くあけいあけい。
▲下京女「なう腹だちや。又なぶるわ。長刀でのせさしめのせさしめ。
▲どん太郎「南無三宝。両方ともに男を持つた。女といふ者はたのみにならぬ。これを菩提縁にして、髪を切つて、かくやに出でうと存ずる{*2}。
《中入》
▲上京女「鈍太郎殿の、ゆうベ上り、門(かど)あけよと仰せられたれども、そでないかと思うて、さんざんしかつた。下京になじみの人があると聞き及うだ。下京にござらう。参りあひませう。ものも。
▲下京女「誰(た)そ。
▲下京女「誰(た)そ。
▲上京女「妾鈍太郎殿女房でござる。ゆうべ上つて、門あけいとおしやつたれども、そでないと思うて、しかりました。こゝにござらう。会はして下されい。
▲下京女「さては上京のでござるか。此所(こゝ)へもゆうべおいでなれども、いろいろしかつてかへしました。
▲上京女「さてはさやうでござるか。道で聴けば、髪を剃つて、かくやに出られたと申すほどに、両人参つて止めませう。
▲下京女「それはようござらう。
▲上京女「二人して無理にとめませう。
▲下京女「こゝに待ちませう。
▲どん太郎「さてもさても、なり果てたことかな。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。
▲下京女「さらば止めさしられい。
▲上京女「心得ました。申し申し鈍太郎殿、何としたなりぞ。戻らしませ。
▲どん太郎「某は棒遣男に持つて、おそろしい事はをりない。なむあみだぶつなむあみだぶつ。
▲下京女「これこれ、まづ戻つて下されい。
▲どん太郎「若い女房の、出家の袖にとりつくと云ふ事があるものか。
▲上京女「平に戻らしられい。
▲どん太郎「某は長刀遣男にもつて、天下におそろしい事はをりない。南無阿弥陀。
▲上京女「二人して止めませう。
▲下京女「両人中(なか)をよくして、迎ひに来ました。もはやこらへて、戻らしられませい。
▲上京女「その通(とほり)ぢや。左右から、女のとりついて頼みまする。今より後(のち)は、気に入るやうにしませう。帰つて下されい。
▲どん太郎「その通(とほり)ならば、物亊をきはめて、上十五日下京、下十五日上京にゐまうせう。
▲上京女「大小の違(ちがひ)がある{*3}。上十五日おれ方(かた)へござれ。
▲下京女「おしらるゝやうにさしられい。
▲上京女「心得ました。
▲どん太郎「此分(このぶん)では帰ることもあるまい。手車に載せて、囃物(はやしもの)して、連れてかへれ。
▲二人「何と、はやしものは。
▲どん太郎「某が、これはたれがたれが手車と云はゞ、両人は、鈍太郎殿の手車と云うて囃さしめ。
▲二人「心得てござる。
▲どん太郎「こりや誰(た)が手車こりや誰が手車こりや誰が手車こりや誰が手車。
▲二人「鈍太郎殿の手ぐるま手ぐるま。
▲どん太郎「是は誰が手車是は誰が手車是は誰が手車是は誰が手車。
▲どん太郎「鈍太郎殿の手車手車。
底本:『狂言記 下』「狂言記外編 巻の四 十 手車」
底本頭注
1:のせらるゝな――「のす」は「薙ぎ倒す」。
2:かくや――刊本にかくあれど、或は「かうや(高野)」か。「高野に上らん」との意なるべし。
3:大小の違――暦の大小のこと。
校訂者注
校訂者注
1:底本は「まゐらうぞ 上京が」。
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