解題
一名「清水」。茶の湯に用ふる清水を汲めと命ぜられし冠者、鬼ありとて汲み来たらず、大事の手桶を捨つ。主人、手桶を取りて行くや、冠者、鬼の真似す。
鬼清水(おにしみづ)
▲との「このあたりの者。冠者あるか。
▲冠者「お前に。
▲との「某も近日茶の湯をする。清水を汲んでこい。
▲冠者「野中の清水には、鬼が居ると申す程に、ゆるして下されい。
▲との「子供かなんぞのやうなる事ばかり云ふ。急いで水を汲んで来い。この手桶をやる。大事の手桶ぢや。念の入れい。
▲冠者「畏つてござる。
▲との「えい。
▲冠者「はあ、にがにがしや。清水汲んで来いと申さるゝ。さいさい{**1}、夜も昼も、清水くみに行け清水くみに行けと云はれう{**2}。参るまい。あゝかなしや、助けい助けい。
▲との「冠者、なんとしたぞ。
▲冠者「清水を汲みにかゝりますると、鬼が出まして、にくいやつの、七つ過ぎて人のこぬ所へ{*1}、おのれめが来た、一口に取つて噛まう、わんわんと申すほどに、足をはかりに逃げてかへりました。
▲との「清水に鬼のある事を聞かぬが{**3}、やい、手桶はなにとした。
▲冠者「あとではりはりと腹を立てて噛み破(わ)り申した。
▲との「はあ、大事の手桶ぢや。取りに行かう。
▲冠者「おかしられい。鬼が出ませう。
▲との「いやいや、行(い)て砕けた手桶なりとも取つて来る{**4}。
▲冠者「これは鬼の事はおいて、鼠もあるまい。某が鬼になつて参らう。
▲との「清水に鬼のあつた事は聞及ばぬが。
▲冠者「取つて噛まう取つて噛まう。
▲との「悲しや悲しや、助けて下されい{**5}。
▲冠者「おのれ、冠者を疑うて来た。頭からとつてかまうとつてかまう。
▲との「助けて下されい。
▲冠者「冠者に、酒を飲まうと云ふほど、飲ませうか。
▲との「なかなか。飲ましませう、飲ましませう。
▲冠者「女房を呼うでやらうか。
▲との「すきな、よい女房をようでやりませう。
▲冠者「女房をようでやらずは、とつてかまうとつてかまう。
▲との「呼うでやりませう。助けて下されい。
▲冠者「其義ならば助くる。某のいぬる方(かた)を見るな。
▲との「見ませぬ。
▲冠者「それそれ、見るわ{**6}。
▲との「見ませぬ。さてさてこはい事や。急いで帰らう。
▲冠者「さらば迎(むかひ)にまゐらう。
▲との「これはどこへ行くぞ。
▲冠者「おむかひに参りました。鬼が出ましたか。
▲との「やいやい、こはい事よ。鬼が出たが、不審な。冠者が贔屓をして、酒を飲ませいことの、女房を呼うでやれのと云うた{**7}。
▲冠者「それはめづらしい事でござる。
▲との「そちが行(い)たときは、何と云うたぞ。
▲冠者「とつて食はうとつて食はう、ああと申してござる。
▲との「おれは合点の行かぬ事がある。今一度行(い)て見て来(こ)う。
▲冠者「平(ひら)になござつそ{*2}。
▲との「いや、行(い)て見ねばならぬ。はなせはなせ。
▲冠者「また鬼になつて参らう。
▲との「合点がゆかぬ。鬼の声とくわじやめの声と、同じ事かと思ふ。
▲冠者「とつてかまう、とつてかまう。
▲との「やい冠者め、どこへ。
▲冠者「あゝ。ゆるさせられませいゆるさせられませい。
▲との「やるまいぞやるまいぞ。
底本:『狂言記 下』「狂言記外編 巻の五 五 鬼清水」
底本頭注
1:七つ――今の午後四時。
2:なござつそ――「行き給ふ勿れ」の意。
校訂者注
1:底本は「さい(二字以上の繰り返し記号) 夜も昼も」。
2:底本のまま。
3:底本は「聞かぬが やい 手桶は」。
4:底本は「取つて来る、」。
5:底本は「助けて下されい、」。
6:底本は「見るわ、」。
7:底本は「云うた、」。
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