解題
一人の冠者、三つの柑子を、一つは臍落としたりとて食ひ、一つは角鍔に潰れしとて啜り、一つはたゞ食ひ了る。
柑子(かうじ)
▲大名「これは、このあたりの大名でござる。太郎冠者あるか。
▲冠者「おまへに。
▲大名「念なう早かつた。汝を呼び出すは、別の事でない。夜前の柑子を、此方(このはう)へわたせ。
▲冠者「二つなりさへ珍しいに、まして三つなりは、なほ珍しいと存じて、槍のしをくびもとに結(ゆ)う附けてござる。何と致したやら、一つ臍落(ほぞおち)が致して、ころころとこけてござるによつて、そこで、柑子に詞(ことば)をかけました。
▲大名「何と。
▲冠者「かうじ門の出でずと{*1}、云ふ事がある程に、とゞまれとゞまれと申してござれば、草木(さうもく)心なしとは申せども、かうじには心があるやら、この葉の一葉(えふ)を、楯について、きつと止(とゞま)つてござる。もつとも、止つたところは、やさしけれど、つれなう落ちたところが、にくいと存じて、かのかうじをおつ取つて、皮をさりまして、下されてござる{*2}。
▲大名「これはいかな亊。それを食(くら)ふと云ふ事があるものか。二つ残りた柑子を渡せ{**1}。
▲冠者「それから、ふところへ入れました。いつもおしかりなさるれども、角鍔(かくつば)をさいて参つてござる。大勢(たいぜい)のおともの中で、ふところが、ひつやりと致したによつて、手を入れて見てござれば、角鍔に押されて、-つ潰れてござる。とてもつぶれた物は、役にたつまいと存じて、この度は、啜り食ひに致しました。
▲大名「一つのかうじを急いで渡せ。
▲冠者「それについて、哀(あはれ)な物語がござる。御聞きなされ。
▲大名「急いで語れ。
▲冠者「《語》さても平判官入道康頼、俊寛僧都、かの硫黄が島へ流さるゝ。二人(にん)な赦免あつて、俊寛一人鬼界が島に残しおかるゝ。
《謡》その如く、三つありし柑子が、一つはほぞおち、一つはつぶれ、はや太郎冠者が、六波羅にをさまりぬ{*3}。人と柑子はかはれども、思(おもひ)は同じ涙なり。
《泣く。》
▲大名「あはれな事を思ひ出した。俊寛のお心が思ひやられて、おいたはしいな。
▲冠者「さやうでござる。
▲大名「やい太郎冠者。一つの柑子を渡せ。
▲冠者「それはものと致してござる。
▲大名「何と。
▲冠者「是も太郎冠者が、下されてござる。
▲大名「あの、やくたいもない。しさり居らう。
▲冠者「はあ。
▲大名「えい。
▲冠者「はあ。
底本:『狂言記 下』「狂言記外編 巻の五 八 柑子」
底本頭注
1:かうじ門の出でず――『北夢瑣言』に「好亊不出門悪事行千里」とあり。「柑子」と「好亊」とを掛詞とせり。
2:下されて――戴く意。
3:六波羅――「腹」を言ひ掛く。
校訂者注
1:底本のまま。
コメント