解題
 一名「芥川」。芥川の天神にまゐる下京の者と上京の者と、ゆくゆく歌を詠みて、おのおの他の悪口をいふ。

脛薑(すねはじかみ)

▲下京の者「罷出でたるは、下京辺の者でござる。某(それがし)芥川の天神の信仰致し、月次(つきなみ)歩(あゆみ)を運ぶやうにござる{*1}。まづそろそろ参ろ。
▲上京の者「罷出でたるは、上京辺の者でござるが、芥川の天神の信仰致し、常に歩(あゆみ)を運ぶやうにござる。まづそろそろ参ろ。や、あれへ行かるゝは、天神参りさうにござる。呼び懸け、道連(みちづれ)に致さうと存ずる。しゝ、申し。
▲下京の者「こなたの事でござるか。
▲上京の者「なかなか。
▲下京の者「何の御用でござるぞ。
▲上京の者「いや{**1}、見ますれば、こなたも天神参りさうにござる。道も寂しうござる程に、連立(つれだ)たうと思うての事でござる。
▲下京の者「身共も、連(つれ)欲(ほし)いと存ずる所に、一段でござる。さあさあござれござれ。
▲上京の者「参る参る。
▲下京の者「して、何と、道すがら淋しうござるが、何ぞ、慰事(なぐさみごと)がして参りたうござるの。
▲上京の者「されば、何が好うござろの。
▲下京の者「思ひ付けましたわ。碁を打ちませう。
▲上京の者「いやこれは、歩き歩きは、どうもなりますまい。
▲下京の者「をを、こりやなりますまい。
▲上京の者「あゝ、思ひ付けましたわ。口慰(くちなぐさみ)をまゐらう。
▲下京の者「いや、これが一段でござろ。どちらからなりとも、出た方から申し得(どく)でござる。
▲上京の者「なかなか。
▲下京の者「いや、彼奴(きやつ)めは跛(ちんば)でござる。あれまづ{*2}。なうなう、早(はや)出てござるわ。
▲上京の者「出ましたか。
▲下京の者「なかなか。即ち、これが津の国ぢてござる{**2}。津の国について致そ。
▲上京の者「一段好うござろ。
▲下京の者「かうもござらうか。
▲上京の者「何と。
▲下京の者「津の国の難波入江にあらねども、あしのもとこそをかしかりけりと{*3}、致してござる。
▲上京の者「はあ出来(でけ)ました。
▲下京の者「好うござるの。
▲上京の者「なかなか。
▲下京の者「この句は、津の国も入らず、なには入江もいらず、あしのもとで持つた句でござる。
▲上京の者「おう、いかう出来たと思うて御感(ぎよかん)でござる。頓(やが)て身共も、出たら申そのう。程なう、これは芥川へ著(つ)いてござる。はれ、いかい高水(かうすゐ)ぢやが、越されますまいほどに、これから、いざ、拝(をが)うで下向致そ。
▲下京の者「神は見透し、これがようござろ{**3}。
▲上京の者「さあさあ拝ましやれい。
▲下京の者「心得てござる。
▲上京の者「なうなう、こなたは又、片手ではなぜに拝ましやる。
▲下京の者「いや、両手で拝(をが)うだも、片手も、心同じことでござろ。
▲上京の者「さうでござる。そろそろ下向いたそ。さあさあ、ちつと今度は又、こなた先へござれ。
▲下京の者「心得ました。
▲上京の者「ござれござれ。彼奴(きやつ)はしやうがさうにござる{*4}。これを返しに申さうず。なうなう、先程の返歌を致そ。
▲下京の者「して、出ましたか。
▲上京の者「なかなか。
▲下京の者「何と。
▲上京の者「即ちこれは、芥川でござる。芥川につけてやりませう。
▲下京の者「ようござろ。
▲上京の者「かうもござらう。
▲下京の者「何と。
▲上京の者「芥川ちりかき流す手を見れば、あしのもとよりなほぞをかしきと、詠みました。
▲下京の者「はあ、一段出来(でけ)ました
▲上京の者「ようござろの。この句は、芥川もとりて捨て、とかくこの、ちりかきながすので持つた句でござる。
▲下京の者「其方(そなた)は指さし手さしをして{**4}、をかしさうなが、して、人をば片輪(かたわ)かと思やるか。
▲上京の者「いや、片輪(かたわ)にではあるまいが、そちらの手は、しやうがではないか{**5}。
▲下京の者「いや、しやうがではない。
▲上京の者「どれ、したら見しや。
▲下京の者「これこれ。
▲上京の者「はて、卒爾なことを申したなう。この手をば捕(とら)へて居るほどに、そちらの手を見しや。
▲下京の者「して、こちらは何ぢやと思やるぞ。
▲上京の者「しやうがぢやわ。
▲下京の者「しやうがではない。
▲上京の者「何ぢや。
▲下京の者「物ぢや。
▲上京の者「何ぢや。
▲下京の者「はじかみぢや{*5}。
▲上京の者「何でもない事。とつとと行け。

底本:『狂言記 上』「狂言記 巻の五 九 脛薑

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底本頭注
 1:歩(あゆみ)を運ぶ――参詣に行く。
 2:あれまづ――原本「あれ申づ」とも読むべし。然らば「あれ申さうず」か。
 3:あし――「葦」に「足」を掛く。
 4:しやうが――手のなきものを生姜と云ふ。
 5:はじかみ――生姜の古名。

校訂者注
 1:底本は「いや 見ますれば、」。
 2:底本のまま。
 3:底本に句点はない。
 4:底本は「其方(そ た)」。
 5:底本に句点はない。