解題
殿より左近の三郎の許への文を、冠者二人して持ち行く。途中それを開きて、遂に引き裂く。
荷文(になひぶみ)
▲主「罷出でたる者は、この辺(あたり)の者でござる。両人の者を喚(よ)び出し、さる方(かた)へ使(つかひ)にやらうと存ずる。やいやい、太郎冠者(くわじや)、次郎冠者あるか。
▲ニ人「はあ、御前に居ります。
▲主「早かつた。汝等を喚び出すこと、別の事でない。この文を左近の三郎殿へ、両人して持つて行け。
▲シテ「畏つてござる。この御状ばかりでござらば、次郎冠者一人(ひとり)遣(つかは)され、私は宿に居りませう。
▲主「いやいや、一人遣れば道寄(みちより)をするやら、遅い程に、二人遣る。返事取つたらば、早う帰れ。
▲二人「畏つてござる{**1}。
▲主「行(い)て云はうは、このぢうは打ち絶えて、人をも進じませなんだ。余り床しさに、文を以て申しますと云うて、行(い)て来い。
▲二人「畏つてござる。
▲主「早う帰れ。
▲ニ人「はあ。
▲主「えい。
▲二人「はあ。
《道行》
▲シテ「次郎冠者、さあ来い来い。この文を遣(つかは)さるゝには一人でも苦しうない事を、二人遣さるゝは、そちが常々串戯(じやうだん)する故ぢや。ちとたしなめ。
▲次郎「そちが道寄をする故ぢや。
▲シテ「やあ、先にから、身共が持つた。ちと、そち持て。
▲次「どれどれ、身共持たう。こちへおこせ。随分此度は早う帰らうぞ。
▲シテ「なかなか。その通(とほり)ぢや。
▲次「やあ、余程持つた。さあ又汝持て。
▲シテ「はて扨重い物ではなし。すぐに持て。
▲次「いやいや、持つ事はならぬ。下に置くぞ。
▲シテ「やいやい、それならよい事を思ひ付けたわ。仕様がある。竹に結(ゆ)ひ付け、二人して荷(にな)うて行かう。
▲次「これは一段よかろ。さあさあ結ひ付けさしませ。
▲シテ「心得た{**2}。さあ、よいぞ。こゝを担(かた)げ。身共も担ぐるぞ。これこれ、是れでよいわ。やあ、いかう重たいと思へば、身共が方(かた)へばかり寄せて置いた。
▲次「いやいや、寄せはせぬ。中にあるわ。
▲シテ「この文が重からう筈はない。不思議な事ぢや。恋の重荷といふがある。聞き及うだが、この文が恋の文ぢやによつて、重いと見えた。思ひ出した{**3}。この文の重うなつたにつけた、小歌を唱(うた)うて行かう。
▲次「一段好からう。
▲二人「よしなき恋をするがなる、富士でみれどもをらればこそ、苦しや独寝(ひとりね)の、わが手枕(たまくら)のかたかへて、持てどももたれず。そもこは何の重荷ぞ。
▲シテ「恋の文は、如何様(いかやう)な事が書いてあれば重いぞ。この文を披(ひら)いて見まいか。
▲次「むざとした亊をいふ{*1}。頼うだ人が聞かせられたら、よいとはおしやるまい。無用にせい。
▲シテ「見てから、元のやうに封じて置かうまで。
▲次「いやいや、いらぬ事ぢや。無用にせいで。これは如何な事、早(はや)開いた。
▲シテ「さあさあ、そちもこれへ来て読(よ)うで見よ。
▲次「さあさあ読まう。
▲シテ「扨も扨も、いつぞやの辱(かたじけな)さ、海山々々。これこれ、重いこそ道理なれ、海山とあるわ。
▲次「すれば、重いが尤ぢや。
▲シテ「まだあるわ。海ならば滄溟海(さうめいかい)、山ならば須弥山(しゆみせん)。これを聞け。扨も扨も、あいだてないことを書き入れて置かれたわ{*2}。
▲次「どれどれ見せい。
▲シテ「まづ待て。
▲次「はて扨見せい。これは如何な事。引き裂いたわ。
▲シテ「それそれ、好いことを仕(し)やつた。帰つてきつと申さう。
▲次「わごりよが引いたによつてぢや。身どもは知らぬ。何としたらば好からうぞ。
▲シテ「されば何とせうぞ。
▲次「思ひ出した。この破れた文、先へは持つて行かれまい。たゞどこから来たともなう、扇(あふ)いでやらう。
▲シテ「一段よからう。とてものことに、小歌節で扇がう。扇がしませ。
▲次「心得た。
▲二人「鴨の河原を通るとて、文を落したよの。風の便(たより)に伝へ届けかし。
▲二人「扇(あふ)げ扇げ。
▲主「両人の者を使(つかひ)に遣つてござる。殊の外遅い。見に参らう。これは如何な事。おのれら何をして居る。これは如何な事。大事の文を引き裂き居つた。
▲シテ「いや、これは御返事でござる。
▲主「何の、返事とは。扨も扨も憎い奴の。どちへうせる。やるまいぞやるまいぞ。
底本:『狂言記 上』「続狂言記 巻の一 八 荷文」
底本頭注
1:むざとした――前後の分別無き意。
2:あいだてない――間隔て無き意。
校訂者注
1:底本は「畏(かしこまつ)てござる」。
2:底本は「心得た さあ、」。
3:底本は「思ひ出した この文の」。
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