解題
　一名「神鳴」。都の藪医者、あづまの方へ稼ぎに出づ。武蔵野にて雷落つ。雷に療治を頼まれて、針を立つ。

針立雷(はりたていかづち)

▲いしや《次第にて出づる》
「やくしゆも持たぬやぶくすし{*1・*2}、やくしゆも持たぬやぶくすし、きはだや頼みなるらむ{*3}。
《詞》これは都に住居(すまひ)いたす藪医者でござる。都には上手の医者が数多(あまた)ござるによつて、身共がやうなる下手な医者は、はやりませぬ程に、此度思ひ立ち、東(あづま)の方(かた)へ稼ぎに参らうと存ずる。
《道行》まづ急いで参らう。やれやれ、久々住みなれた故郷をふり捨て、この如くに東へ下るは、何とも気の毒な事でござる。さりながら、又追付(おつつけ)仕合(しあはせ)を致して上らうと存ずる。やあ参るほどに、これは広い野へ出た。定めてこれは聞き及うだ、武蔵野と云ふがこれであらう。扨も扨も広い事かな。やあ、今迄好い天気であつたが、俄(にはか)に暗うなつた。夕立がすると見えた。この野で夕立に遇うたら、何ともなるまい。はあ、どこやら雷(かみなり)の鳴る音もする。さればこそ夕立がして来た。雷も頻(しきり)に鳴るわ。落ちはせまいか。桑原桑原桑原。
▲シテ雷「ぴつかりぴつかりぴつかり。づでいどう。あゝ悲しや。これは踏み外して落ちた{*4}。さてもさても、したゝか腰の骨を打つた。はあ痛や。やいやいそこな奴、おのれは何者ぢや。
▲いしや「私は医者でござりまする。東(あづま)の方(かた)へ下ります所に、夕立に遇ひました。
▲シテ「何ぢや、医者ぢや。それは幸(さいはひ)の事ぢや。身共不慮にここへ落ちた。したゝか腰を打つた。療治を為(し)てくれ。
▲いしや「私も人間の療治は、形(かた)の如く致しましたが、雷殿の療治は、終(つひ)に致しませぬ。御免(ごゆる)されませ。
▲シテ「いやいや、人間の療治の、雷の療治のと云うて、別に違(ちがひ)はあるまい。療治せい。
▲いしや「どうござつても、御免(ごゆる)されませ。
▲シテ「おのれは憎い奴の。療治を為(せ)ぬにおいては、たつた一攫(ひとつかみ)に攫殺(つかみころ)してやらうぞ。
▲いしや「あゝ悲しや。真平(まつぴら)御免(ごゆる)されませ。なるほど療治致しませう。まづ脈をうかゞひませう。
▲シテ「いかにも見てくれ。
▲いしや「さらば脈をとりませう。
▲シテ「やいやい、これはかはつた脈ぢやなあ。
▲いしや「その義でござる。人間の脈は手にござる。雷殿の脈は、頭脈(づみやく)と申して、頭(づ)でとります。
▲シテ「それそれ。それほど知つて居て、知らぬと云ふ。何とあるぞ。
▲いしや「されば、脈が殊の外高ぶりますが、こなたには、御持病があると見えました。
▲シテ「やあ、そちは大きな上手ぢや。なるほど己(おれ)は持病がある。持病は何であらうと思ふ。
▲いしや「されば御持病は、中気があると見えました。
▲シテ「扨も上手ぢや。中風(ちうぶ)がある。何と中風も治り、又したゝか腰を打つたも、療治をして癒(なほ)してくれまいか。
▲いしや「されば、中気は、宿でござらば、薬を調合致しませうずれども、途中の事でござる。何ともなりますまい。腰の痛(いたみ)には、針を持合(もちあは)せました。針をいたしませう。
▲シテ「その針といふは、痛いものではないか。
▲いしや「いやいや、痛うはござらぬ。人間さへたてます。
▲シテ「それなら立ててくれ。
▲いしや「畏つてござる。横にならせられ。この如くに針を懐中して居ります。どこ許(もと)がようござらう。こゝは何とござる。
▲シテ「なるほど其所(そこ)が好い気味ぢや。
▲いしや「それならこゝに一本立てませう。はつし{*5}。
▲シテ「あ痛あ痛。
▲いしや「はつしはつし。
▲シテ「あいたあいた。やれやれ、痛いわ痛いわ。早う抜いてくれ抜いてくれ。
▲いしや「これは雷殿とも覚えませぬ。人間さへ立てます。経絡(けいらく)が違ひます{*6}。何と身を悶えなさるゝぞ。
▲シテ「いやいや、堪忍ならぬ。早う抜いてくれ抜いてくれ。
▲いしや「尤でござる。抜きますぞ。怺(こら)へさせられ。さあ抜きました。何とござる。
▲シテ「はあ、さてもさても痛いものぢや{**1}。さりながら今の針で、痛(いたみ)が余程治つた。さりながら、まだ何所(どこ)やら痛の残つた所があつて、気味が悪い。
▲いしや「それなら{**2}、も一本立てたら、痛みも中風も、すきと癒(なほ)しまして{*7}、根を切つて進じませう。
▲シテ「それなら、も一本立ててくれ。痛うない様にしてくれい{**3}。
▲いしや「心得ました。こゝが好うござらう。こゝに立てませう。はつし。
▲シテ「あいたあいた。
▲いしや「はつしはつし。
▲シテ「あいたあいたあいた。やれやれ、怺(こら)へられぬぞ。早う抜いてくれ抜いてくれ。
▲いしや「今すこしでござる。待たせられ。抜きますぞ。きつとしてござれ。
▲シテ「いやいや、痛うてどうもならぬ。早う抜け。
▲いしや「心得ました。抜きますぞ。さあ抜きました。何とござる。
▲シテ「扨も扨も痛いものかな。はあ、今の針で、痛がすきとよいわ。
▲いしや「さうでござらう。それなら、ちと立つて見させられ。
▲シテ「立つて見やう、手を執つてくれ。
▲いしや「心得ました。手を執つて立たしませう。何とござる。
▲シテ「立つて見てもよい。嬉しうこそあれ。最早(もはや)身共は天上するぞ。
▲いしや「これ申し申し。
▲シテ「何事ぢや。
▲いしや「只今療治を致した、薬代(やくだい)を下され。
▲シテ「いや身共は、ふと此所(こゝ)へ落ちたによつて、持合(もちあはせ)がない。よい便宜におこさうぞ。
▲いしや「いやいや、それが何時の事やら知れませぬ。この如くに、私の遠国(をんごく)へ廻りますも、薬代を取り、身を立てう為でござる。どうでも只今取らねばなりませぬ。
▲シテ「それでも無い物は是非がない。やあ、好い事を思ひ出した。物とせうぞ。
▲いしや「何とでござる。
▲シテ「今度夕立のする時に、其方(そち)が所へ落ちて、その薬代を遣らうぞ。
▲いしや「なうなう、おとましやおとましや{*8}。聞くも厭でござる。いやでもおうでも、今取らねばなりませぬぞ。
▲シテ「それは医者殿、聞分(きゝわけ)がない。持合(もちあはせ)がなければ、此所(こゝ)に近付(ちかづき)と云うてはなし、借つて遣らうやうもない。何とそれならば、身共に薬代のかはりに、何ぞ似合うた望(のぞみ)はないか。
▲いしや「されば、何でござらうぞ。や、思ひつけた。この如く、田舎遠国を廻りますれば、今年は水損(みづそん)がいた{*9}、旱損(ひそん)がいたのと申して{*10}、薬代くれませぬ程に、今から旱損(ひそん)も水損(みづそん)もいかぬやうにして下され。
▲シテ「それは何より易い事ぢや。身共が儘ぢや。水損旱損のいかぬやうにして、世の中の好いやうにしてやらうぞ。
▲いしや「それは辱(かたじけな)うござる。
▲シテ「その上そちを、典薬の頭(かみ)に祝うてやらうぞ。　
▲いしや「いよいよ辱うござる。
▲シテ「それなら、この様子を謡に謡うて、天上せうほどに、汝も謡へ。　
▲いしや「心得ました。
▲シテ「《謡》《太鼓打上、》降つては照(てら)しつ降つては照しつ、一千年が其間、水損旱損あるまじき、御身はやくしのけゞんかや。中風をなほすくすしをば、てんやくのかみと云ひすてて、又なるかみは上(のぼ)りけり、又なるかみは上りけり。
ぴつかりぴつかりぴつかり{**4}。
▲いしや「くはばらくはばらくはばら。

底本：『狂言記　上』「続狂言記　巻の一　九　針立雷」

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底本頭注
　1：やくしゆ――「薬種」。
　2：やぶくすし――「藪医者」。
　3：きはだ――「黄蘖」。
　4：踏み外(はづ)して――雲を也。
　5：はつし――針を立つる音。
　6：経絡(けいらく)――「血脈」。
　7：すきと――すつきりと{**5}。
　8：おとましや――「疎まし」のこと。
　9：水損(みづそん)――「水害」。
　10：旱損(ひそん)――「干魃」。

校訂者注
　1：底本は「痛いものぢや　さりながら」。
　2：底本は「それなら　も一本」。
　3：底本に句点はない。
　4：底本は「▲シテ「ぴつかり」。
　5：底本は「きと――すつきりとす」。