解題
 聟が舅の許にゆきて蕨餅を食ひ、かへりて女房に所望し、その名を忘る。女房、朗詠の詩をいひて、漸くわかる。

岡大夫(をかだいふ)

▲しうと「罷出でたる者は、この辺(あたり)の者でござる。今日は最上吉日(きちにち)でござるによつて、聟殿の御出なされうとある。まづ太郎冠者(くわじや)を喚(よ)び出し、申し付けう。やいやい、太郎冠者あるか。
▲冠者「はあ、御前に居ります。
▲しうと「汝を喚び出すこと、別の事でない。今日は最上吉日なれば、聟殿の御出なさるる筈ぢや程に、きれいに掃除をせい。御出なら此方(こなた)へ申せ。
▲冠者「畏つてござる。
《二人下に居ると聟いづる。》
▲むこ「舅にいとしがらるゝ花聟でござる。今日は最上吉日でござるほどに、聟入(むこいり)を致さうと存ずる。まづ急いで参らう。
《道行》まことに聟入といふは晴(はれ)なもので、人が見たがると申す。定めて、垣からも、窓からも、目ばかりでござらう。やあ、参る程に、これぢや。まづ案内を申さう。ものも。案内も。
▲冠者「表に案内がある。案内とはどなたでござるぞ。
▲むこ「これは、これの花聟が参つたと申せ。
▲冠者「畏つてござる。申し申し、聟殿の御出でござる。
▲しうと「此方(こなた)へ通らせられと申せ。
▲冠者「心得ました。申し申し、此方(こなた)へお通りなされませ。
▲むこ「心得た。無(ぶ)案内にござる。
▲しうと「やあ、好うこそ御出なされた。待ちかねました。
▲むこ「さればされば、早々参りませう所に、何かと致して、遅なはりました。その段は、これのお娘子にめんじて、御免なされ。
▲シテ「いやいや、ちつとも苦しうござらぬ。太郎冠者、今の言ひ付けて置いた物を出せ。
▲冠者「畏つてござる。
《三方に、蕨餅載せ出す。聟の前に置くなり。餅は黒き絹切にて丸めぬひ、のせおくなり。》
▲しうと「さあさあ、これを参れ。
▲むこ「これは旨さうな物でござる。さらば食べませう。
《餅を取り食ふ態する。懐中へ入るゝ也。》
扨も扨も、旨い物でござる。これは何と申す物でござる。
▲しうと「これは蕨餅と申すものでござるが、延喜の帝の御寵愛なされたによつて、官を下されて、蕨餅を岡太夫とも申します。すなはち朗詠の詩にも載つてござる{*1}。
▲むこ「扨も扨も、旨い物でござる。も一つ食べませう。
▲しうと「やいやい太郎冠者、も一つ進ぜ。
▲冠者「いや、最早(もはや)ござりませぬ。
▲しうと「はて扨、残多(のこりおほ)ござる。最早無いと申す。お帰りなされたら、この仕様を、をなあが存じて居ます{*2}。拵へさしてまゐれ。
▲むこ「私はない物は食べませぬ。それなら帰りまして、宿で食べませう。最早(もはや)かう参ります。
▲しうと「ござるか。何の御馳走もなうて、残多(のこりおほ)ござる。さらばさらばさらば。ようござつた。
▲むこ「はあ、なうなう嬉しや嬉しや。まんまと聟入すました。
《道行》まづ急いで帰つて、今の餅を食べませう。はやこれぢや。なうなうをなあ、今帰つたわ。
▲女「やあ、はや帰らせられたか。早うござつた。
▲むこ「さればされば、舅殿も機嫌がようて、馳走にあうた。それにつき、何やら珍らしい物を振舞はれたわ。
▲女「それは何でござつた。
▲むこ「はあ、何やらであつたが。藤太夫(とうだいふ)とやら云はれたが、老子にも載つてあると云はれた。
▲女「いやいや、それは朗詠の詩の亊でござらう。
▲むこ「それそれ、それを食はう。
▲女「これは食はるゝ物でござらぬ。妾(わらは)が一つ二つ覚えて居ます。云ひませう程に、その内に有るなら有ると仰せられ。
▲むこ「心得た。云うて聞かしやれ。
▲女「鶏既鳴忠臣待旦(にはとりすでにないてちうしんあしたをまつ){*3}。あしたとは、かいじやう時{*4}、若(も)しかいのすざい{*5}、鶏冠菜(とつさかのり)ばしまゐつたか。
▲むこ「いやいや、その様な物でもなかつたわ。
▲女「気霽風梳新柳髪(きはれてはかぜしんりうのかみをくしけづり){*6}。氷消波洗旧苔鬚(こほりきえてはなみきうたいのひげをあらふ)。ひげにて思ひ出した。若(も)しところばしまゐつたか{*7}。
▲むこ「いやいや、ところは己(おれ)も知つて居るが、それでもない。
▲女「池凍東頭風度解(いけのこほりのとうとうはかぜわたつてとけ){*8}。窓梅北面雪封寒(まどのうめのほくめんはゆきほうじてさぶし)。梅にて思ひ出した。若(も)し梅干(うめぼし)ばしまゐつたか。
▲むこ「なうなう、酸(す)やの酸やの。聞くさへ酸い。それでもおりやらぬ。
▲女「こしゆ海(かい)の底には{*9}、なつとうの沙(いさご)を敷くとは、納豆を肴にして、酒ばしくらうたか。
▲むこ「酒ばしくらうたかとは、藁で作つても男ぢやに、くらうたかとは、どうした事ぢや。おのれ聴かぬぞ。ぶつておいたがよい。あゝ腹立(はらだ)ちや。
▲女「なうなう、はらだちやはらだちや。したゝか妾が手を打(ぶ)つた。扨も痛や痛や。まことに紫塵(しぢん)の懶(ものう)さは{*10}、蕨一手(ひとて)をとると云ふが、このことであらう。なうなう痛い事かな。
▲むこ「やあやあ、今のは何と云うたぞ。も一度云うて聞かしやれ。
▲女「何ぢや、も一度云へ。紫塵の懶さは、蕨一手をとると云ふ事ぢや。
▲むこ「それそれ、蕨で思ひ出したわ。蕨餅のことぢや。
▲女「何と、蕨餅と仰せらるゝか。それは妾が仕様を知つて居ます。拵へて進ぜうぞ。
▲むこ「なうなう、嬉しや嬉しや。旨い物ぢやわ。よう拵へてたもれ。食ひたうてならぬ。
▲女「心得ました。易い事ぢや。こちへござれござれ。
▲むこ「嬉しい事ぢや。わごりよは立派な人ぢや。生長(なまなが)い事をよう覚えて居やる。今の打擲したは堪忍さしませ。
▲女「何か扨、堪忍せいでなりませうか。気遣(きづかひ)召さるな。
▲むこ「なうなう、いとしやいとしや。こちへおりやれおりやれ。
《女を負うて這入る也。》

底本:『狂言記 上』「続狂言記 巻の三 一 岡大夫

前頁  目次  次頁

底本頭注
 1:朗詠――藤原公任撰『和漢朗詠集』なり。
 2:をなあ――「女」也。娘、即ちこの聟の妻。
 3:鶏既鳴云々――唐の賈島の詩。
 4:かいじやう時{**1}――「粥常斎」か。
 5:かいのすざい――「粥の素菜」か。
 6:気霽云々――都良香の詩。
 7:ところ――野老也。薯蕷也。
 8:池凍云々――藤原篤茂の詩。
 9:こしゆ海(かい)云々――未詳。
 10:紫塵(しぢん)の云々――「紫塵嫩蕨人拳手」といふ小野篁の詩による。

校訂者注
 1:底本は「かいじやうとき」。