解題
 一名「猿座頭」。勾当が女房をつれて花見に行き、酒を飲む。猿引来りて勾当の女房を誘ひ、女房の代りに猿をおいて行く。

猿替勾当(さるかへこうたう)

▲シテ「これは、この辺(あたり)に住居(すまひ)致す勾当でござる。頃日(このごろ)は、西山東山の花が盛(さかり)ぢやと申す。それにつき女どもが、花見に参りたいと云うて、毎年(まいねん)せがめども、身共は目が見えず、花はえ見ませぬによつて、参りも致さねば、殊の外、女共が腹を立つるほどに、当年は女共を連れて、某(それがし)も参り、目で見る事がならぬほどに、花を嗅いでなりとも慰まうと存ずる。なうなう、女共居さしますか。
▲女「妾(わらは)を喚(よ)ばせらるは、何事でござる。
▲シテ「いや、其方(そなた)を喚ぶは、別のことでない。頃日(このごろ)は、西山東山の花が盛(さかり)ぢやと申す。其方(そなた)の、いつも花見に行きたい行きたいと云うて、せがまします程に、今年は身共も同道して、花見に参らうほどに、わごりよは花を見やれ。身共は花を嗅いでなりとも慰まうわ。 
▲女「なうなう、それは嬉しうござる。よい慰(なぐさみ)でござらう。さりながら、花は見るとこそ申せ、嗅ぐといふ事はござるまいぞ。
▲シテ「いやいや、さうおしやるな。嗅ぐと云うても苦しうない。歌がおりやる。よう聞かしませ。この春は知るも知らぬも玉鉾の{*1}、行きかふ人の花の香ぞすると云ふ時は、嗅ぐと云うても、ちつとも苦しうない。
▲女「尤でござる。さあさあ、ござれござれ。
▲シテ「手を引いてたもれ。
▲女「心得ました。
▲シテ「なうなう、其方(そなた)と身共と、このやうに手を引合(ひきあ)うて行くは、花を見るよりは、これほど面白いことはおりやらぬ。
▲女「はて扨人が聞くに、むざとしたこと仰せられそ。
▲シテ「花見に行くやら、夥(おびたゞ)しい人ぢや。
▲女「さうでござる。
▲シテ「やあ、小筒(さゝえ)を用意めさつたか{*2}。
▲女「なかなか。はや申し付けまして、清水の地主(ぢしゆ)へ持たしてやりました{*3}。
▲シテ「それは一段ぢや。
▲女「申し申し、何かと云ふうちに、これがはや地主(ぢしゆ)でござる。
▲シテ「はやこれか。何所(どこ)ぞ人のない所に居やう。
▲女「此所(こゝ)がようござる。これにござれ。此所(こゝ)に見事な花がござる。
▲シテ「それなら此所(こゝ)に居やう。其方(そなた)も下に居さしめ。さあさあ、まづ一つ飲まう。小筒(さゝえ)を出さしめ。
▲女「心得ました。さあさあ参れ。
▲シテ「さらば飲まう。注(つ)がしませ。これこれ、一つありさうな。
▲女「ちやうどござる{*4}。
▲シテ「さてもさても、内で飲むとは違うて、旨いことぢや。さらば、わごりよに差さう。
▲女「戴きます。
▲シテ「一つ飲ましませ。わつさりと謡はう{*5}。
▲二人「ざゝんざあ、浜松の音は、ざゝんざあ。
▲女「さらばこれを、こなたへさしませう。
▲シテ「よからう。注(つ)がしませ。さてもさても、飲むほど旨い。何なりとも謡はう。
▲猿引「これは洛中を廻る猿引でござる。今日も旦那まはりをいたす。承れば頃日(このごろ)は花盛(はなざかり)ぢやと申す。今日は序(ついで)ながら清水へ参り、花を見物して帰らうと存ずる。はやこれが清水地主(ぢしゆ)でござる。さてもさても、夥(おびたゞ)しい花見かな。やあ、これに座頭が、女房を連れて、花見に来てゐる。さてもさても、よい女ぢや。これこれ、なうおりやれ。ちと物が問ひたい。
▲女「何事ぞ。妾(わらは)が事でござるか。
▲猿引「いかにも其方(そなた)のことぢや。あれはわごりよの男か。
▲女「なかなか、妾が幼馴染でござる。
▲猿引「さてもさても、其方(そなた)の様な好い器量で、あの様な座頭を男に持つものか。身共がよい所へ肝煎(きもい)りて嫁入(よめいり)させう{*6}。おりやれ。
▲女「されば、妾も厭でもござらねども、あの人も幼馴染で{**1}、いとしうござる。
▲シテ「女房ども女房ども、どちへ行(い)たぞどちへ行たぞ。 
▲女「これこれ、此所(こゝ)に居ます。
▲シテ「わごりよは合点のいかぬ。何所(どこ)へお行きやつた。
▲女「いや、酒を取りに参りました。
▲シテ「いやいや、合点が行かぬ。さあさあ、又酒を飲まう。注(つ)がしませ。
▲女「心得ました。それそれ、一つ注(つ)ぎました。参れ。
▲シテ「はあ、さてもさても、旨い事ぢや{**2}。さあ又差さう。飲ましませ。
▲女「妾も酔ひませうが、それならも一つたべませう。なうなう、辺(あたり)に誰もござらぬほどに、肴に小舞(こまひ)を一つ舞はせられ。
▲シテ「されば、其方(そなた)の望(のぞみ)ぢやほどに、酒には酔ふ、舞もせうか。
▲女「それは嬉しうござる。舞はせられ。
▲シテ「何も慰(なぐさみ)ぢや。舞はう。
《謡、小舞》一天四海波を打ち{*7}、をさめたまへば、国も動かぬあらかねの、土の車のわれらまで、道せばからぬ大君(おほぎみ)の、みかげの国なるをば、ひとりせかせ給うな。
▲猿引「これはいかなこと。座頭が舞を舞ふ。これこれ、おりやれおりやれ。ちよつとおりやれ。
▲女「何でござる。
▲猿引「どうでもよい所へ肝煎(きもい)らうほどに、身共次第にして、早う抜けておりやれ。
▲女「妾も厭でもござらぬが、して、その参る所は、好い所でござるか。
▲猿引「なるほど好い所で、しかも男もよい男でおりやる。
▲女「それならどうなりとしませうが。
▲シテ「なう女ども女ども、何方(どち)へ行かしました。女房ども女房ども。
▲女「いや、此所(こゝ)に居ます。さてもさても、今の舞は面白い事でござる。
▲シテ「いやいや、わごりよは立(たつ)つ居つして、どうやら合点が行かぬ。よいよい、仕様がある。この帯で繋いで、身共が帯に結ひつけて置かう。
▲女「これは何となさるゝ。
▲シテ「これこれ、かうして置けば気遣(きづかひ)がない。さあさあ、酒を又飲まう。
▲女「それそれ、注(つ)ぎました。最早(もはや)過ぎませう。
▲猿引「これはいかなこと。座頭は賢い者ぢや。繋いで置いた。なうなう、おりやれおりやれ。何と、腰を教ゆるは、繋いであるによつて、行かれぬと云ふ事か。尤ぢや。何とせうぞ。思ひ出した。仕様がある。この猿と繋ぎ代へて置かう。足音を聞きとられてはなるまい。そつと繋ぎ代へて置かう。さあ、しすました。まんまと繋ぎ代へた。これこれ、其方(そなた)をよい所へきもいらうといふは詐(いつはり)、身共が所へ連れて行(い)て、千年も万年も添はうぞ。此所(こゝ)へ負はれさしめ。なうなう嬉しや。急いで帰らう。
▲シテ「さあさあ、もそつと酒を飲まう。注(つ)がしめ。なう女共、なぜに物をおしやらぬ。繋いで置いたが、それほど腹が立つか。まづこちへ寄らしませ。
▲猿「きやあきやあきやあ。
▲シテ「なう悲しや。女共、これはなぜに掻き付く。どうしたことぞ。
▲猿「きやあきやあきやあ。
▲シテ「あゝ悲しや。女房共が猿になつて、毛が生えた。何とせうぞ。
▲猿「きやあきやあきやあ。
▲シテ「あゝ悲しや。ゆるせゆるせゆるせ。

底本:『狂言記 上』「続狂言記 巻の四 八 猿替勾当

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底本頭注
 1:この春は云々――『新古今集』藤原家隆の歌也。実は「この程は知るも知らぬも玉鉾の行きかふ袖は花の香ぞする」也。「玉鉾」は「道」の意。
 2:小筒(さゝえ)――「酒器」。
 3:地主(ぢしゆ)――「権現」也。
 4:ちやうど――盃に酒の満ちたる形容。
 5:わつさりと――「陽気に」。
 6:肝煎(きもい)り{**3}――世話をすること。
 7:一天四海云々――謡曲「土車」の文句。

校訂者注
 1:底本は「幼馴染で いとしう」。
 2:底本は「旨い事ぢや さあ又」。
 3:底本は「肝煎」。