解題
坊主に宿かさんとし、亭主その弟子になりて、髪を剃りて貰ふ。女房、見て大に怒る。
路蓮坊主(ろれんばうず)
▲シテ坊主「これは、東国辺(へん)に住居(すまひ)致す者でござる。某(それがし)世の中を味気(あぢき)なう存じ、かやうの態(てい)になつてござる。これより国々修行致さうと存ずる。まづ上方へのぼり、此所彼所(こゝかしこ)を見物致しませう。そろそろと参らう。
《道行》まことに出家程、世に楽な者はござらぬ。何方(どれ)へなりとも、行きたい方(かた)へ、心に任せ、参ることでござる。やあ、これははや日も暮方(くれかた)になりました。宿を借りたいが、これに家がある。まづ宿を借りませう。ものもう。案内。
▲アド「表に案内がある。どなたでござる。
▲シテ「これは旅の出家でござる。行き暮れてござる。一夜(や)の宿を貸して下され。
▲アド「安い事でござる。見苦しうござれども、御宿申しませう。これへ御通りなされ。
▲シテ「それは忝(かたじけな)うござる。通りませう。まづ下に居ませう。
▲アド「なうなう、女ども居さしますか。旅の御出家に、御宿申した。一飯(いつぱん)を拵(こしら)やりやれ。
▲女「心得ました。拵へませう。
▲アド「なうなう御出家、まづゆるりとござれ。追(おつ)つけ一飯が出来ます。
▲シテ「それは忝うござる。
▲アド「それにつきまして、私の常々存ずるは、こなたの様な御出家に逢ひまして、教化(けうげ)にも預りたいと存じてござる。それ故、御宿を申してござる。今宵は、夜とともに、教化をなされて下され。
▲シテ「それは易いこと。出家の役でござるほどに、いかにも教化を致しませう。まづ教化と申して、別の事もござらぬ。すでに人間の果敢(はか)ない事を申さば、電光、朝露(てうろ)、石の火、風の前の灯(ともしび)、又は朝顔の花などにも、譬へおかれてござる。御存じの如く、朝顔の花と申すは、朝開きて日の出れば凋(しぼ)み、夕(ゆふべ)にばらりと落つる。果敢ない物でござる{**1}。まだ朝顔の花は、早朝に開き、夕を待つ楽(たのしみ)もある。人間の果敢なきは、出づる息、入る息を待たぬ果敢ない物でござる。老少不定と申して、若いが先だち、老いたるは、後に残る世のならひでござる。かやうのことを存じて、後世を願はぬと云ふは、大きな油断でござる。必ず必ず、こなたにも、今より後世を大事と心得、願はせらるゝが肝要でござる。まづ教化と申すも、皆この様なことでござる。
▲アド「扨も扨も、ありがたい教化に預りまして、忝(かたじけな)うござる。何と、こなたの様な出家は、今からこの世を離れてござるほどに、定めて、何事も心にかゝる事も無う、楽な事でござらう。
▲シテ「仰せらるゝ通り、出家ほど楽な者はござらぬ。この世に、一つも思ひ残す事はござらず{**2}。たゞ後世を大事に致し、何方(いづかた)へなりとも、行きたい方(かた)へ心に任せ参る事なれば、出家はこの世からの仏でござる。
▲アド「さやうでござらう。それにつきまして、私も常々出家の望(のぞみ)でござる。向後(きやうこう)は、こなたの弟子にして、出家にして下され。
▲シテ「それは易い事でござる。さりながら、まづ、親類衆又御内儀とも、よう談合して、出家にならせられ。
▲アド「いやいや、常々望(のぞみ)でござるによつて、女共も親類も、皆合点でござる。是非とも髪を剃つて下され。
▲シテ「それなら、なるほど、弟子に致して剃りませう。用意なされ。
▲アド「心得ました。まづ揉みませう。最早(もはや)ようござる。
▲シテ「さらば剃りませう。三帰五戒を授けたり。南無帰依(きえ)僧帰依法帰依仏。ぢよりぢよりぢより。
《頭巾著せ、》
さあ剃りました。好うござるわ。
▲アド「忝うござる。何と似合ひましたか。
▲シテ「なかなか、よう似合ひました。何と衣(ころも)の用意がござるか。
▲アド「いや、まだ用意もござらぬ。
▲シテ「それなら、身どもが代(かへ)の衣がある。貸しませう。これを著(き)させられ。
▲アド「忝うござる。著ませう。
▲シテ「扨も扨も、尚(なほ)好うござる。
▲アド「申し申し、とてものことに、私の名を附けて下され。
▲シテ「いや、名は今までの名がようござる。
▲アド「いやいや、出家の、俗名ではなりますまい。是非とも附けて下され。
▲シテ「まづそれにござれ。やれやれ、迷惑な事でござる。身どもは幼少の時より、学文(がくもん)は致さず{**3}。人の名を附くるは、とつと、むづかしいものぢやと申す。何と致さう。思ひ出した。いろはをやうやう習うておいた。いろは字で、名をつけて遣らうと存ずる。さらば名をつけて進ぜう。何と、人の名といふは、家により、つく字があるが、こなたの家には、何といふ字をつくぞ。
▲アド「されば、私(わたくし)家には、下にれんの字をつきます。
▲シテ「何と、れんの字、れんれん。
▲アド「蓮(はちす)と申す字でござる。
▲シテ「何ぢや、蜂の巣。
▲アド「いや、蓮(はちす)と申す。
▲シテ「いかにもいかにも、合点でござる。蓮(れん)の字、下に蓮の字蓮の字。よい名があるわ。
▲アド「何とでござる。
▲シテ「い蓮(れん)坊とつけませう。
▲アド「いやいや、是は嫌でござる。もそつと、よい名をつけて下され。
▲シテ「夫(それ)なら何とつけうぞ。は蓮(れん)坊とつけませう。
▲アド「いやいや、是も聞きにくい名でござる。よい名をつけて下され。もそつと長い名がようござる。
▲シテ「それなら長い名は、ちりぬ蓮(れん)坊とつけませう。
▲アド「いやいや、これも喚(よ)びにくい名でござる。
▲シテ「これもいやなら、何とつけうぞ。よい名があるわ。ろ蓮(れん)坊と附けう。
▲アド「ろ蓮坊。これは好い名でござる。これに致しませう。
▲シテ「それなら、向後(きやうこう)こなたは、ろ蓮坊ぢや。
▲女「なうなう、こちの人は何所(どこ)にござる{*1}。一飯(ぱん)が出来ました出来ました。
▲アド「これこれ、此所(こゝ)にゐるわ。
▲女「否(いや)、こなたではない。こちの人、何所(どこ)にぞ。
▲アド「いや、そちが見違へたが道理ぢや。身共出家になつておりやる。これこれ身共ぢや。
▲女「やあやあ、こゝな男、誰に問うて坊主になつた。妾(わらは)は何とするぞ。あら腹立ちや腹立ちや。
▲アド「いや、おれは是非なりたいとも云はなんだ。こゝな出家が、楽な者ぢや、是非なれとおしやつた。
▲女「なれと云うてなるものか。腹立ちや腹立ちや。
▲アド「あゝ許せ許せ。
▲女「やいやい、そこな売僧(まいす)坊主、なぜに大事の男を坊主にした。
▲シテ「いやいや、常々望(のぞみ)ぢや、お内儀も合点ぢやと云はれた。
▲女「まだその様な事云ふか。腹立ちや。もとの様にして返せ返せ。
▲シテ「あの今剃つたものが、何となるものぢや。二三年の内には、元の様に生(は)えうぞ。
▲女「いやいや、どうでも元の様にして返せ。やるまいぞ。どこへ逃ぐる。
▲シテ「いやいや、知らぬぞ知らぬぞ。
▲女「やるまいぞやるまいぞ{**4}。あらはらだちやはらだちや。
底本:『狂言記 上』「続狂言記 巻の五 三 路蓮坊主」
底本頭注
1:こちの人――夫を呼ぶ詞。
校訂者注
1:底本に句点はない。
2・3:底本のまま。
4:底本は「やるまいぞ あら」。
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