解題
 夫、出雲の大社へ年籠に行きし留守に、蓬莱の島の鬼来りて、女房を驚かす。鬼、くたびれて寝る。女房、豆をまきて逐ふ。

節分(せつぶん)

▲女「妾(わらは)は、この家の女房でござる。今夜は節分でござるによつて、こちの人は出雲の大社(おほやしろ)へ、年籠(としごもり)に参られてござる。表も裏もさいて{*1}、好う留守いたしませう。
▲シテ鬼「《次第》{*2}節分の夜(よ)にもなりぬれば、節分の夜にもなりぬれば、豆を拾うて噛まうよ。
《詞》これは、蓬莱の島より出でたる鬼でござる。今夜日本には、節分ぢやと申して、家々に豆をはやす{*3}。急ぎ日本へ渡り、豆を拾うて噛まうと存じ候。
《道行{*4}・謡》蓬莱の島をば後に見なしつつ、島をば後に見なしつつ、行末(ゆくすゑ)問へど白雲の、行末問へど白雲の、あら骨折れや、草臥(くたび)れや、足に任せてゆく程に、足に任せてゆく程に、日本の地にも著(つ)きにけり。
《詞》急ぐほどに、これは日本の地に著(つ)いた。殊の外草臥(くたび)れてひだるい{*5}。何ぞ貰うて食べたいが、やあ、これに家がある。覗いて見やう。ぐつさり。あ痛あ痛。まことに忘れた。今夜節分で、蓬莱の島から鬼が来ると云うて、家々に柊(ひいらぎ)をさす。それを忘れて目をしつくりと突いた。あら、めひらぎやんな{*6}。この様なものは、かちおとしてくれう。最早(もはや)心易い。案内いはう。ものもう。案内。
▲女「表に案内がある。こちの人は留守ぢやによつて、開(あ)くる事はなりませぬ。
▲シテ「いや、ちと用がある。開(あ)けてたもれ。
▲女「それなら開(あ)けませう。ざらざら。これは如何なこと。誰もないもの。又若い衆が嬲(なぶ)ると見えた。
▲シテ「扨も扨も不思議な事ぢや。鼻の先に居る某(それがし)が見えぬさうな。まことに思ひ付けた。身共が隠れ蓑、隠れ笠を被(き)て居る故ぢや。脱いで参らう。ものもう。案内。
▲女「又案内とおしやる。今も開(あ)けたけれど、誰もない。嬲(なぶ)りやるものであらう。開(あ)くる事はならぬ。
▲シテ「いや、この辺(あたり)の者ぢや。ちと用がある。開(あ)けてたもれ。
▲女「あたりの人なら、開(あ)けて遣らう。ざらざら。なうなう、怖(おそろ)しや怖しや。鬼が来た。あたりに誰もないか。あれを打出(うちだ)して下され。なうなう、こはやこはや。
▲シテ「これこれ、身共は蓬莱の島の鬼と云うて、こはい物ではをりない。
▲女「鬼がこはうなうて、何がこはからうぞ。彼方(あつち)へうせいうせい。おそろしやおそろしや。
▲シテ「なうなう、島から只今著(つ)いて、殊の外ひだるい。何ぞ食ぶる物が有るか。たもれ。
▲女「なんぞやつたら去(い)ぬるか。
▲シテ「なかなか、去なう。
▲女「こりやこりや、これを遣る。早う去ね。
▲シテ「これは何ぞ。
▲女「これは荒麥(あらむぎ)ぢや。
▲シテ「何ぢや。荒麥ぢや。鬼の心はあら麥の、鬼の心はあら麥の、食う術(すべ)を知らざれば、捨ててぬけい{*7}。
▲女「扨も扨も、勿体ない事をしをる。
▲シテ「なうなう、わごりよは此所(こゝ)に一人(ひとり)居るか、二人居るか。
▲女「一人居やうと、二人居やうと構ふな。
▲シテ「いや、一人居やらば、伽(とぎ)をしてやらう。
▲女「なうなう厭(いや)な事いひ居る。あつちへうせうせ。
▲シテ「扨も扨も{**1}、美しい女房かな。あれほど美しい女房も又あるまい。
《小歌節》あら美しの女房や。漢の李夫人{*8}、楊貴妃、小野の小町は、見ねば知らねども、あれほど美しき女房もあるものか。あゝら、ほそ堪へ難(がた)やな。あの島先(しまさき)に居りやればこそ、お手はかくれ、渡らぬ先にお手をかくるでもなし。あゝら、おいらおいらしや{*9}。おきやうこつやの。
《女の側へ寄るなり。》
▲女「なうなう、こはやこはや。彼方(あつち)へうせいうせい。恐しや恐しや。
▲シテ「なうなう。
▲女「何事ぢや。
▲シテ「其方(そなた)のその細い口で、身共が頤(おとがい)へ喰ひついてたもれ。
▲女「なうなう、厭な事云ひ居る。あつちへうせい。打ち出して下され。なう、おそろしやおそろしや。
▲シテ「《小歌》太刀佩(は)いたも憎いか。小太刀佩(は)いたもにくいか。弓担(かた)げたもにくいか。縁でこそ候はめ。はいとうはいとう、担(かた)げたがいとし。
《又側へ寄るなり。》
▲女「なうなう、おそろしやおそろしや。又側(そば)へ寄り居つた。あつちへうせうせ。
▲シテ「《小歌》来(こ)うか小二郎、来(こ)まいか小二郎、いひきれ小二郎、門(かど)さそに、門さそに。さすならさゝい、さすならさゝい。藪から道はないものか、藪から道はないものか。
▲女「なうなう、こはや、おそろしや。まだ其所(そこ)に居るか。出て行け出て行け。
▲シテ「扨も扨も、心強い女ぢや。これほどいふに合点をせぬ。しめしめと降る雨も、西が晴るれば止(や)むものを。何とてか、我が恋の晴れやる方(かた)のなきやらん。
《鬼泣くなり。》
▲女「これは如何なこと。あの鬼が真実妾を思ふと見えて、涙をこぼす。騙して宝を取らうと存ずる。
《謡》{**2}いかにやいかにや鬼殿よ。まこと、妾を思ひなば、宝をわれにたび給ヘ。
▲シテ「やあ、わごりよも悪うは惚れぬよ。易き間の御所望なり御所望なり。
《笠蓑持ちて、》
蓬莱の島なる己(おれ)が持つたる宝は、隠れ蓑、隠れ笠、打出の小槌、諸行無量、常(じやう)むやう、くわつしこくにぐわつたりと、わごりよにおますぞ{*10}。さあさあ、最早(もはや)身共がまゝぢや。此所(ここ)へ来て腰を打つてたもれ。あゝ草臥(くたび)れた。
▲女「やあ、よい時分でござる。豆をはやしませう。福は内福は内、鬼は外鬼は外。
《シテへ打つける。》
▲シテ「これはならぬぞ。
▲女「鬼は外鬼は外。
▲シテ「これは何とする。
▲女「鬼は外鬼は外。
▲シテ「あゝ許せ許せ。
▲女「鬼は外鬼は外鬼は外。

底本:『狂言記 上』「続狂言記 巻の五 十 節分

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底本頭注
 1:さいて――戸締りをすること。
 2:次第――曲がかり。
 3:豆をはやす――「豆を打ちて囃す」意か。
 4:道行――曲がかり。
 5:ひだるい――空腹のこと。
 6:めひらぎやんな――目がひゝらぐ(ひりひりと痛む)也。「やんな」は「やな」といふ感動詞。
 7:ぬけい――「のけい」の音便か。
 8:李夫人――李延年の妹にて、武帝の后也。
 9:おいらおいらしや――いらいらすること。
 10:おますぞ{**3}――進ぜると也。

校訂者注
 1:底本は「扨も(二字以上の繰り返し記号)も」。
 2:底本は「▲女《謡》」。
 3:底本は「おまぞ」。