解題
東国の僧、美濃国赤坂にて山賊を騙し、剃刀にて手を負はせ、その家に宿を借る。
手負山賊(ておひやまだち)
▲シテ「《舞台中にて名乗る。》
某(それがし)はこの辺(あたり)に隠れもない山賊(やまだち)でござる。まことに、若き時分より、親の意見も聞き入れず{**1}。唯明暮(あけくれ)この年迄、ありたきまゝに身を持ち、勿論商売も覚えぬ故、この街道に出で、山賊をいたし、渡世を送る。けふもこれに待つてゐて{**2}、何者でも通れかし、丸剥(まるはぎ)にしてくれうと存ずる。まづこれに忍んでゐよ。
▲アド「罷出でたる者は、東国方の者でござる。某、いまだ都を見物いたさぬ。この度思ひ立ち、こゝ彼所(かしこ)を見物いたし、それより西国修行致さうと存ずる。まづ急いで参らう。やれやれ、皆人の仰せらるゝは、若い時旅をせねば、老いて後、物語もないと仰せらるゝによつて、俄に思ひ立つてござる。やあ、なにかといふうちに、こゝは何所(どこ)ぢや。何と、美濃国赤坂ぢや。これははや日も暮れかゝる。もはや泊りたいが、この辺(あたり)に宿もなし、今すこし参つたら泊(とまり)がござらう。片時も早く参らう。
▲シテ「やあ、これへ坊主が来た。剥(は)いでくれう。やいやい、おのれ、やることではないぞ。そのおのれが著(き)てゐる物も、路銀も皆おこせ。
▲アド「それは何とも迷惑でござる。私は貧僧で何も持ちませぬ。みちみち、鉢を開いて通ります{*1}。許して下され。
▲シテ「いやいや、少しなりとも、金銀のない事はあるまい。是非なくば、著(き)てゐる物脱いでおこせ。
▲アド「それは何とも気の毒でござる。出家のことでござる。慈悲にもなりましよ。堪忍して下され{**3}。
▲シテ「どうでも許すことはならぬ。まづ、その衣(ころも)から脱いでおこせ。おこさぬと、この長刀で打ち切つてくれうぞ。
▲アド「あゝ、あぶなうござる。進ぜましよ進ぜましよ。さらば取らせられ。
▲シテ「取らいでならうか。
▲アド「扨も扨も、迷惑な事でござる。何といたさう。やあ、兎角(とかく)騙すに手なしでござる。かやうのところでは、妄語申しても苦しうない{*2}。妄語申したばかつて、これに剃刀を持ち合(あは)せました。隙(すき)を見て、切つてくれうと存ずる。申し申し、私は出家の何もない者でござる。著(き)てゐる物を脱いで進じては、丸裸になります。許して下され。その御恩には、私は肩を打ち、按摩を取ることを得てゐます。こなたにも、定めて肩がつかへましよ程に、肩をうつて進ぜましよ。
▲シテ「何といふ。肩を打つてくれう。
▲アド「なかなか。
▲シテ「それはよからう。如何(いか)にも肩がつかへて悪い。見れば貧僧さうな。許してやろ。さあさあ、こゝへよつて肩をうて。
▲アド「畏つてござる。許してさへ下さるゝなら、夜(よ)とともなりと打ちましよ{*3}。
▲シテ「これへ寄つて、はやう打て。長刀も下に置かう。
▲アド「ようござりましよ。さらば打ちます。
▲シテ「扨も扨も、そちは上手ぢや。よい気味ぢやぞよい気味ぢやぞ。
▲アド「やあ、よい時分でござる。この剃刀で、ふえをかいて{*4}、この谷へつき落しましよ。こはものぢやが。なうなう{**4}、恐しや恐しや。まんまと仕済(しすま)した。足を計りに参り{*5}、宿を取らう。これこれ、こゝを開(あ)けてたもれ。旅の出家ぢや。宿かしてくりやれ{**5}。
▲女「誰ぢや。こちの人は留守ぢやによつて、宿かすことはならぬ。
▲アド「尤でおりやる。さりながら、出家のことなり、殊に夜に入りて行く先も知らぬ。慈悲にならう。貸してたもれ。
▲女「何と、御出家か。それなら留守なりとも貸しましよ。こちへ通らせられ。さらさらさら{*6}{**6}。さあ通らせられ。
▲アド「嬉しうこそござれ。まづ、落著(おちつ)きました。ゆるりと寛(くつろ)ぎましよ。
▲女「一飯(ぱん)の、拵へて進ぜう。ゆるりとござれ。
▲シテ「扨も扨も坊主めに騙された。きついこと仕居(しを)つた事かな。されども手も浅い{*7}。どうぞして宿へ帰らう。定めて最早(もはや)遥かに逃げ居つたであらう。憎いことかな。往(い)なれうか知らぬ。きつう痛むが。はあ嬉しや。やうやうとこれぢや。女どもこゝをあけ{*8}。帰つた。早う開(あ)け早う開け。
▲女「こちの人の戻られたさうな。ざらざらざら。これはどうしたことぞ。手を負うておりやつたか。相手は誰ぢやぞ誰ぢやぞ。何者がしたぞ。おしやれいのおしやれいの。
▲シテ「まづ、女どもかゝへてくれ、下に居たい。
▲女「心得た。何と、手は痛むか。何としたことぞ。
▲シテ「扨も扨も不仕合(ふしあはせ)なことぢや。坊主めに出逢つたが、騙された。されども手は浅い。死ぬる事ではあるまい。気遣(きづかひ)するな。
▲女「いやいや、自然の事があれば悪い{*9}。祈祷にもなる。幸(さいはひ)出家に宿貸して、奥の間にぢや。念仏を勧めて貰ひましよ。なうなう、御出家。こちの人が手を負うて戻られました。念仏を勧めて下され。
▲アド「それは、苦々しい事ぢや。出家の役でござる。これでござるか。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏{**7}。
▲シテ「やあ、最前の坊主はあれぢや。おのれやる事ではないぞ。長刀おこせ。
▲女「扨はあの坊主がしたか。やるまいぞ。
▲アド「あゝ悲しや。こゝへ宿を取合(とりあは)さずは。なう悲しや悲しや。
▲シテ「おのれ坊主め。どこまでも追つ懸け、打殺(うちころ)してくれうぞ。やらぬぞやらぬぞ。
▲アド「やれ、出合へ出合へ。悲しや悲しや。
▲二人「やるまいぞやるまいぞ。
底本:『狂言記 下』「狂言記拾遺 巻の一 十 手負山賊」
底本頭注
1:鉢を開いて――托鉢し、施しを受くること。
2:妄語――出家の禁戒也。
3:夜ととも――「終夜」。
4:ふえをかいて――「喉吭(のどぶえ)をかき切つて」。
5:足を計(はか)りに――「足の続くだけ」。
6:さらさら――戸を開く様子。
7:手も浅い――軽傷のこと。
8:女ども――「妻」のこと。
9:自然の事――「万一の場合」。
校訂者注
1:底本のまま。
2:底本は「待つてゐて。」。
3:底本は「勘忍して下され」。 4:底本は「▲アド「なうなう」。
5:底本は「宿かしてくりやれ、」。
6:底本は「さら(二字以上の繰り返し記号二つ) さあ」。
7:底本は「▲アド「南無阿弥陀」
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