解題
 一名「松脂」。松拍子の当番、立衆と俱に囃の相談す。折から松の精現れて、薬煉を煉る。

松(まつ)の精(せい)

▲アド「これはこの辺(あたり)の者でござる。当年は某(それがし)、松拍子(まつばやし)の当番に当つてござる{*1}。各(おのおの)を呼び寄せ、今日は松拍子の稽古致さうと存ずる。やいやい、太郎冠者(くわじや)あるかやい。
▲冠者「はあ、お前に居ります。
▲アド「汝を呼び出す事、別の事でない。某、当年は松拍子の当屋(たうや)に当つた。近日の事ぢや程に、今日はその稽古をも致し、又相談を極(きは)めませう程に、御出なされと云うて呼うで来い。
▲冠者「畏つてござる。
▲アド「早う行(い)てこい。
▲冠者「はあ。
▲アド「えい。
▲冠者「はあ、やれやれめでたい事でござる。まづ何方(どなた)から先へ参らうぞ。やあ、まづ誰殿から先へ参らう。何かと云ふ中(うち)に、是ぢや。物もう。案内も。
▲立衆「やあ、表に案内とある。何方(どなた)でござる。
▲冠者「いや、私でござります。
▲立衆「やあ、太郎冠者か。何と思うて来たぞ。
▲冠者「されば、其事でござる。頼うだ人申されますは、当年は松拍子の当番でござる。夫(それ)につき、今日はその稽古をも致したうござる程に、御出なされませいと申して、私をおこされました。
▲立衆「如何にもさうであらう。夫へ参らうとあつて、各これへ寄つてござる程に、追付(おつつ)け同道して参らう。汝は先へまゐれ。
▲冠者「畏つてござる。やれやれ嬉しや嬉しや。残らず参らうかと存じたれば、さつと足を助かつた。まづ帰つて此通(このとほり)申さう。申し申し、ござりますか。誰殿へ参りましてござれば、各寄り合つてござつて、はやこれへお出なされます。
▲アド「それは一段ぢや。
▲冠者「やあ、はやこれへ御出でござる。
▲立衆「御当(ごたう)めでたう存ずる。さあさあ、何(いづ)れもござれ。当屋へ参らう。
▲立衆「なかなか、参りましよ。はやこれでござる。今日はめでたうござる。
▲アド「いづれも、ようこそ御出なされた。まづゆるりとござれ。
▲立衆「心得ました。
▲アド「扨、いづれも呼びに進ずるは、別の事でもござらぬ。松拍子も近日でござる。それにつき、今日は相談をいたし、何とぞ当年は、めでたい事を囃さうと存ずるが、何とござろ。
▲立衆「それが一段好うござろ。何と云うて囃しましよの。
▲アド「されば、私の存ずるは、とかく松ほどめでたい物はござらぬほどに、松やにやに、やに。松やにやにや、と云うて、囃しましよ。
▲立衆「これは一段ようござろ。さあさあ、囃して見ましよ。
▲アド「松やにやにや。
▲立皆「松やにやにや。
▲アド「に、松やにやにや。
▲立衆「松やにやにや。
▲シテ「やにやにやにや。
▲立衆「松やにやにや。
▲シテ「やにやにやにや。
▲アド「これは興(きよう)がつたなりぢやが、汝は何者ぢやぞ。
▲シテ「某は千年(ちとせ)めでたい松の精ぢやが{*2}、いづれもが松を祝うて囃さるゝによつて、当年はいついつよりめでたう存じ、顕れ出でてあるぞとよ。
▲アド「扨も奇特なことかな。いづれも聞かせられたか。
▲立衆「なるほど聞きました。この様なめでたい事はござるまい。
▲アド「あまりめでたい事でござるほどに、あの松脂(まつやに)を、薬煉(くすね)に煉(ね)りましよ{*3}。
▲立衆「一段好うござらう。
▲アド「やいやい、近頃めでたい。この上は薬煉(くすね)を煉(ね)らうが、煉られてくれうか。
▲シテ「易い事でござる{**1}。さりながら、いづれもの煉らせられては、煉り損(そこな)ひがあらう。某煉つて進ぜう。
▲アド「それは、尚(なほ)以ての事ぢや。急いで煉つて呉(く)れさしめ。
▲シテ「《謡》いでいで薬煉をねらんとて、
《地》いでいで薬煉をねらんとて、くすね皮(かは)を大きに拵へ{**2}、この松脂(まつやに)をとり入れて、いかにもねばくあやかれとて、ねりつれてこそ帰りける。天下を治むる弓の弦(つる)、家を治むる弓の弦に、引くためしも久しき松脂かな。
▲ワキ{**3}「《詞》やにやにやにや。

底本:『狂言記 下』「狂言記拾遺 巻の二 一 松の精」

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底本頭注
 1:松拍子(まつばやし)――正月三日より十五日迄に行はれたる一種の歌舞。
 2:松の精――松樹の精霊。
 3:薬煉(くすね)――松脂と油とを煉り合はせたる物。弓の弦に塗る科。

校訂者注
 1:底本は「ござる さりながら」。
 2:底本は「拵へ この」。
 3:底本はのまま。