解題
田舎の百姓が、親の第三年に当つて僧を招く。その僧の談議に常に泣く尼あり。此時ともに行きしも、泣かずして居眠りす。
泣尼(なきあま)
▲アド「罷出でたる者は、遥(はるか)田舎に住居(すまひ)致す者でござる。某(それがし)、親の第三年に当つてござる。近日の事でござる程に、今日は都へ上り、よささうな長老衆を頼み、同道致して下り、一座の談議を述べて貰はうと存ずる{*1}。まづ急いで上らう。やれやれ、都ヘ上つてござらば、これを次手(ついで)にして、こゝかしこを見物致さうと存ずる。やあ、参る程に、これが都ぢや。こゝもとには寺方(てらかた)も見えぬ。寺町へ参り、頼みましよ。これぢや。これに寺がござる。まづ案内申さう。ものもう。案内もう。
▲シテ長老「表に案内がある。どなたでござる。
▲アド「いや、私でござります。遥(はるか)田舎の者でござる。某、親の第三年に当りましたによつて、一座の談議を述べて貰ひたう存じ、参りました。御下りなされて下されうば、忝(かたじけな)うござりましよ。
▲シテ「それは、何より易い事でござる。出家の役でござる。参らう。さりながら、若(も)し身共がえ参らずは、どれなりとも、外(ほか)の長老衆を下す為ぢやが、物は何程なさるゝ。
▲アド「物とは何でござります。
▲シテ「はて、物は。
▲アド「あゝ、合点致しました。お布施の事でござるか。
▲シテ「なかなか、そのこと。
▲アド「それは、五百疋致しましよ。
▲シテ「それならば、身共が参らう。
▲アド「それは忝うござります。
▲シテ「追付(おつつ)け参らう。さりながら、此方(こなた)も只今上つて、草臥(くたび)れてあらう。少(ちと)それで休息めされ。
▲アド「畏つてござる。
▲シテ「後ほど御目に懸からう。やれやれ、一段の事でござる。五百疋の布施物(ふせもの)を取るわ。大分の事ぢや。急いで参らう。さりながら、身共は、談議が下手でござるによつて、たまたま談議しても、参りがない。されどもこゝに、私の談議を聞いては、殊勝なと申して、涙をこぼし泣く尼がござる。これを頼み、連れて下り、談議の時泣かさうと存ずる。内に居やうか存ぜぬ。参るほどに、これでござる。ものも。尼は内におりやるか。
▲尼「表にものもうがある。何方(どなた)でござる。
▲シテ「いや、身共でおりやる。
▲尼「やあ、長老様でござりますか。何と思召(おぼしめ)して、御出なされました。
▲シテ「されば、只今来たは別義でない。身共は、さる田舎より頼みに来た、一座の談義を述べに下る。それにつき、其方(そなた)はいつも、身共が談議を聞いては、殊勝に思うて、涙をこぼしこぼしおしやる。先へ参つても、首尾のよいようにと思ふことぢや。其方は身共が後から、見え隠れに下つて、談議の時参りになつて、いつもの様に、涙をこぼし泣いてたもれ。頼むぞ。
▲尼「それは何より易い事でござります。こなたの事でござる程に、何方(いづかた)へなりとも下りましよ。
▲シテ「それは近頃満足ぢや。首尾よう仕舞(しま)へば、大分布施を取ることぢや。わごりよにも、半分は配分して遣ろぞ。
▲尼「それなら、いよいよ下りましよ。私はこなたの御談議聞きますれば、何時(いつ)でも、涙がこぼれてありがたうござる。
▲シテ「それそれ、その如くに、先へ行(い)ても泣いてたもれ。
▲尼「心得ました。
▲シテ「いざ、追付(おつつ)けまゐる。其方(そなた)もちと後からおりやれ。
▲尼「畏つてござる。ようござりました{*2}。
▲シテ「さらばでおりやる。やれやれ、まんまと尼が合点致した。定めて、田舎人(ゐなかびと)が待ち兼ねて居よ。急いで帰らう。田舎の、居りやるか。唯今帰つた。
▲アド「これに居ります。
▲シテ「定めて、待ち兼ねてござらう。いざ追付(おつつ)けまゐらう。
▲アド「それは御苦労に忝うござる。まづお先へござりませ。
▲シテ「それなら参らうか。さあさあ。
▲アド「参ります。
▲シテ「まことに、こなたは若いが奇特でござる。さりながら、かやうの善い功徳をなさるれば、せふ善徳と申して、定(ぢやう)は、此方(こなた)のためになる事でござる。
▲アド「常々さやうに承りましてござる。申し申し、なにかと申す中(うち)に、程なうこれでござります。まづこれへお通りなされて下されませ。見苦しい所へ、恥(はづか)しうござります。
▲シテ「いやいや、左様にはござらぬ。綺麗にしてござる。やあ、尼は参つたかしらぬ。
▲アド「それならば、御草臥(おくたびれ)でもござりましよが、追つ付け、御談議をなされて下され。在所の者共も、待ち兼ねて居ります。
▲シテ「なるほど始めましよ。高座を飾つて下され。
▲アド「畏つてござる。
▲尼「やあ、漸(やうや)う御談議の始まる時分ぢや。参りましよ。
▲シテ「何(いづ)れも奇特に参詣なされた。愚僧は、都さる寺の者でござる。今日(こんにち)、この家の施主頼まれ、一座の談議を致すことでござる。親の第三年とあつて、談議を致さるゝ、奇特なことでござる。扨、今日(こんにち)の談議は、四恩と申す沙汰でござる。四恩と申すは、天地の恩、父母の恩、国土の恩、これを四恩と申す。惣じて人間は、まづ第一、父母に孝を尽(つく)し奉らねば、天地仏神の御心(おんこゝろ)にも叶はず。ましてその身の一生の間、心に叶ふ事ないものでござる。既に唐(もろこし)に、郭巨と申すは、一人の親を養はんとて、我が子を土に埋(うづ)まんと、打立(うちた)つる鍬の下より、黄金(こがね)の釜を掘り出し、それより親を歓楽に養ひ、その家も富貴(ふつき)に栄えたと申す。夫婦の人は、余り忝さのまゝ、涙をこぼし、天道を三度礼拝致されてござる。まことにかやうの事も、偏(ひとへ)に親孝行ゆゑ、天理に叶ひ、乃(すなは)ち天道より与へ給ふ黄金の釜でござる。忝い事でござる。惣じて、人間五十年、僅か夢の中(うち)、今日あつて明日ないことでござる。必ず必ず、うかうかと暮(くら)さずとも、唯(たゞ)真実に、来世は助け給へと、心から随喜の涙をこぼし、仏を頼ませられ。申しても申しても、この世は僅(わづか)ぢや。夢の中の眠(ねむり)を醒(さま)し、後世菩提を願はせられ。今日の説法これまでなり。願以此功徳普及於一切我等与衆生皆倶成(ぐわんいしくどくふきふおいつさいがとうよしうじやうかいぐじやう)。まづ{**1}、談議をしまひました。
▲アド「扨も扨も、忝うござります。御苦労でござります。ありがたい御談議でござりました。
▲シテ「扨、愚僧も、用事もござる程に、早速上(のぼ)りましよ。御暇(おいとま)申さう。
▲アド「これは、余り早々でござる。まづ、御酒(ごしゆ)でも参つてござりませ。
▲シテ「いやいや、御酒はたべますまい。扨、物は、何となされた。
▲アド「物とは、お布施のことでござるか。
▲シテ「それそれ、そのお布施のこと。
▲アド「それは、はや持たして上(のぼ)しました。
▲シテ「はや先へ上せられたか。それは過分にござる。もはやかう上ります。
▲アド「ござりますか。
▲シテ「なかなか。
▲アド「ようござりました。
▲シテ「扨も扨も、尼めは憎い奴かな。どちへうせた知らぬ。
▲尼「なうなう、長老様。只今のお談議は、扨も扨も、何時(いつ)よりありがたうござりました。
▲シテ「おのれは憎い奴の。談議の中(うち)、泣けかしと思ふ時は泣かいで、今ほえたと云うて{*3}、何の役にたつものぢや。
▲尼「いや私は、ありがたうて、涙がこぼれましてござる。
▲シテ「何を云ひ居る。居眠(ゐねぶ)つてばかり居つて。またそのつれを云ひ居るか{*4}。
▲尼「やあ、これは、何と召さる。此方(こなた)は、折角これまで妾(わらは)を連れて来て、打擲めさるか。お布施を半分割(はんぶんわり)ぢや。さあさあ、受取りましよ。
▲シテ「おのれふせつて居つて、何の用にも立たぬ奴に、布施をわりてやらうぞ。遣ることはならぬ。
▲尼「ならぬと云うて堪忍せうか。厭(いや)でも応でも取らねばならぬ。おこしやれおこしやれ。
▲シテ「おのれ物を云はして置くによつて、憎い奴の。おのれが様な奴は、かうして置いたがよい。
▲尼「なうなう、痛(いた)や痛や。腹だちや腹だちや。何所(どこ)へ長者お行きやる。やる事ではないぞ。お布施を半分おこしやれ。やるまいぞやるまいぞ。
底本:『狂言記 下』「狂言記拾遺 巻の二 九 泣尼」
底本頭注
1:一座の談議――「一席の法談」。
2:ようござりました――「よくお出になつた」也。
3:ほえた――泣くこと。
4:つれ――「つれな事」とも云ふ。「無理」の意。
校訂者注
1:底本は「▲シテ「まづ」。
コメント