解題
その子に名をつけて貰はんと、富貴の尼を訪ひ、酒を祝ひて、その子も尼も舞ふ。
比丘貞(びくさだ)
▲アド親「罷出でたる者は、この辺(あたり)に住居(すまひ)する者でござる。某(それがし)、忰(せがれ)を一人持つてござるが、殊のほか成人致してござれど、名を付け替へてとらせませぬ。けふは幸(さいはひ)、吉日(きちにち)でござる程に、身共に御目を掛けらるゝお寮(れう)様に{*1}、めでたい富貴(ふつき)なお方がござる。これへ連れて参り、名を付けて貰はうと存ずる。まづ、呼び出して申しつけう。なうなう、かな法師おりやるか{*2}。
▲子「はあ、これにをります。
▲アド「早かつた。わごりよを呼び出すこと、別のことでない。そちも殊のほか成人致したに、名をつけもせぬ。今日は幸(さいはひ)、吉日ぢや程に、お寮様へ連れて行(い)て{*3}、名をつけて貰はうと思ふが、何とあらう。
▲子「それは忝(かたじけな)うござる。さりながら、遅うても苦しうない事でござる。
▲アド「いやいや、今日は日もよい。同道致さう。竹筒(さゝえ)を用意しやれ{*4}。
▲子「畏つてござる。用意いたしました{**1}。
▲アド「さあさあ、おりやれ。
▲子「参ります。
▲アド「只今から、わごりよもお寮様にあやかつて、仕合(しあはせ)めされ。
▲子「さやうでござる。
▲アド「やあ、参る程にこれぢや。案内云はうほどに、それに待たしめ。
▲子「畏つてござる。
▲アド「ものもう。お寮様、お宿にござりますか。
▲シテ「おれうが方(かた)へ、ものもうは誰(た)そ。
▲アド「いや、私でござります。
▲シテ「わごりよか。なうなう珍しや珍しや。まづこちへ通らしめ。
▲アド「畏つてござる。
▲シテ「なうなう、今日は何と思うておりやつた。
▲アド「さればでござります。まづ、ひさびさ御見舞申しませぬによつて参りました。御無事にござりまして、おめでたうござります。
▲シテ「それそれ、其方(そなた)も息災でめでたうおりやる。
▲アド「さやうでござります。今日はかな法師が御見舞申しました。
▲シテ「何と、かな法師が見舞うた。それはどこにゐるぞ。
▲アド「表に居ります。
▲シテ「表におくと云ふことがあるものか。こちへ呼ばしめ。
▲アド「畏つてござる。なうなう、かな法師、あれへ出させませ。
▲子「畏つてござる。
▲アド「かな法師、出ましてござる。
▲シテ「これがかな法師か。わごりよ、よう来たの。扨も扨も、久しう見ぬ中(うち)に、大(おほき)な者になつたわ。なうなう、あれは今に、かな法師と云ふか。
▲アド「さればでござります。今に名を付け替へてとらせませぬ。それにつきまして、今日は、かな法師が、お前を烏帽子親に頼みまして{*5}、名を付けて貰ひましたいと申す願(ねがひ)でござります。付けて取らしてくだされませ。
▲シテ「はて扨、むざとしたことをおしやる人の。名を付けると云ふは、めでたい殿達のめさる事ぢや。その上、とつとむづかしいものぢやと聞いた。妾(わらは)は知り候はぬよ。
▲アド「いや、お前様の御果報にあやかりまして、仕合(しあはせ)致したいと申す望(のぞみ)でござります。是非とも付けさせられて下されませ。
▲シテ「何と、かな法師が願(ねがひ)ぢや。
▲アド「左様でござります。
▲シテ「それならば、何とぞ付けても見やうか。
▲アド「それは忝うござります。
▲シテ「さりながら、人の家によつて付く字があるものぢやが、其方(そなた)の家には何をつくぞ。
▲アド「私の家には、下に太郎をつけます。
▲シテ「下に太郎太郎。なうなう、よい名があるわ。このお寮を、皆お庵お庵と仰せらるゝほどに、おあんのあん字を取つて、あん太郎と付けう。
▲アド「扨も扨も、よい名でござります。やいやい、そちが名は、今日からあん太郎と云ふぞ。
▲子「これは忝うござります。
▲シテ「何と、気に入つたか。
▲アド「申し申し、これはあん太郎が持たせてござります。
▲シテ「ようこそ呉(く)れさしました。めでたい今の祝儀に、お寮がことぢやほどに、めゝ五十石(こく)参らすぞ{*6}。
▲アド「これは忝うござります。やいやい御礼申しませ。
▲子「忝うござります。
▲アド「とてもの儀でござります、名乗(なのり)もお付けなされて下されませ{*7}。
▲シテ「いやいや、それは又他所(よそ)へ頼ましめ。
▲アド「いや、序(ついで)に、是非ともお付けなされて下されませ。
▲シテ「それ程におしやる、つけても見やうが、これも通字(とほりじ)の、何と云うて付く字があるものぢや。そちの家には何をつくぞ。
▲アド「されば、私の家には下に貞(さだ)を付けます。
▲シテ「下に貞貞。なうなう、よい名乗がある。このお寮を皆比丘尼とも仰せらるゝ程に、比丘のびくの字を取つて、びく貞と付けう。
▲アド「これはよい名乗でござります{**2}。
▲シテ「今からあれが名を、あん太郎びく貞と云ふほどに、さう心得。
▲アド「よう聞いたか。御礼申せ。
▲子「忝うござります。
▲シテ「なうなう、またこの祝儀に、おあし百貫参(まつ)すぞ{*8}。これを元手にして、かず多(おほ)さしませ。
▲二人「はあ、これはかさねがさね忝うござります。
▲シテ「めでたいめでたい。祝うて、先のあん太郎が、持たせの竹筒(さゝえ)を広めさしませ。
▲アド「畏つてござる。さらば一つ参りまして、あん太郎におさしなされて下されませ。
▲シテ「それなら飲うで差さうか。これをあん太郎に差さう。
《子飲む。》
▲アド「これは、憚(はゞかり)ながら進ぜませい。
▲シテ「も一つたべうか。めでたう謡はしませ。
▲二人「ざゝんざあ、浜松の音はざゝんざあ。
▲シテ「さらば、これをそこへ差さう。
▲アド「申し申し、私も受けもちました。久しうお寮様の舞を見ませぬ。一つ舞うて、お見せなされて下されませ。
▲シテ「いやいや、おれうは舞とやらは、舞うた事がおりやらぬ。知り候はぬ。
▲アド「いやいや、私が、お若い時分に見まして存じて居ります。是非ともお舞ひなされませう。
▲シテ「よう覚えてゐるとおしやるか。それなら酒(さゝ)に酔うた上ぢや。舞はうか。
▲アド「それは忝うござります。
▲シテ「恥(はづか)しけれど舞はう。
《小舞》かまくらの上臈は、すゝだけのつめたに、おりものの手おほひ、うつの宮がさをきりゝと召されて、おりやらしませ、ゐやらしまして、あさいはひさしませ。なうなう、恥(はづか)しや恥しや。構へて構へてあん太郎、沙汰をすなよ{*9}。
▲アド「扨も扨も、しをらしい面白い事でござります。さらばこの盃を、憚(はゞかり)ながら進じましよ。
▲シテ「これへ給(た)もれ。も一つ飲まうか。なうなう、あん太郎も子供の時から舞を舞うた程に、肴に一つ舞はしやれ。
▲アド「畏つてござる。やいやい、あん太郎。舞を御肴にまへ。
▲子「畏つてござる。
《小舞》一天四海波を打ち治めたまへば{*10}、国も動かぬあらかねの、土の車のわれ等まで、道せばからぬ大君の、みかげのくになるを、ひとりせかせ給ふか。
▲シテ「やれやれ、あんにや、よう舞うたなあ。扨も扨も、面白いことかな。さあさあ、もそつと謡はせませ。
▲二人「岩あ木にあらざれば{*11}、心弱くもたちかへる。所は山路の菊の酒、などかは苦しかるべき。
▲シテ「なうなう、謡はいつ聞いても面白い。
▲アド「その上を、もそつと参りまして、もはや御納(おをさめ)になされて下されませ{**3}。
▲シテ「いやいや、もはやたべまい。酒に酔うた。
▲アド「どうでも参りまして、ようござりましよ。
▲シテ「《飲む。》
それならもはや納めておかうか。さらばとらしませ。
▲アド「畏つてござる。申し申し、最前の舞は、短うて見足りませぬ。も一つ長い事をおまひなされて、見せさせられませ。
▲シテ「それなら、一つ舞うたも、二つ舞うたも同じ事ぢや。舞はうか。
▲アド「忝うござります。
▲シテ「《舞》やらやら、珍しや珍しや。
《地》昔が今に至るまで、比丘人(びくにん)の烏帽子子(ゑぼしご)を取ることは{*12}、これぞ初めの祝言なる。
▲シテ「さりながら方丈{*13}、
《地》さりながら方丈、寺も庵も、おあしもめゝも、多くもちたれば、始終の旦那に頼みたのまるゝ、唯今の引手物、めゝ五十石、おあし百貫、比丘貞に取らせ、これまでなりとて方丈は、これまでなりとて方丈は、眠蔵(めんざう)にくつすと這入りけり{*14}。
底本:『狂言記 下』「狂言記拾遺 巻の三 五 比丘貞」
底本頭注
1:お寮(れう)様――「尼」。
2:かな法師――「子供」のこと。
3:御寮様――原本、「ろりう様」。義によりて改む。
4:竹筒――「酒入れ」。
5:烏帽子親――元服せさする役。
6:めゝ――「米」のこと。
7:名乗(なのり)――「実名」。
8:参(まつ)す――「参らすぞ」。「上げるぞ」。
9:沙汰をすなよ――「人に言ひ触らすな」也。
10:一天四海云々――謡曲「土車」の文句。
11:岩あ木に云々――謡曲「紅葉狩」の文句。
12:比丘人(びくにん)――「びくにん」は、「比丘尼」をはねたるなるべし。
13:方丈――「住持」・「長老」などのこと。
14:眠蔵(めんざう)――納戸の如き室。
校訂者注
1:底本に句点はない。
2:底本は「ござります、」。
3:底本は「下されませ、」。
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