解題
 一名「塗師」。都の塗師、はやらぬに拠りて、越後北之荘に在る弟子平六の許に行く。平六の女房、平六死去せりといひ、平六、幽霊としてその師匠に逢ふ。

塗師平六(ぬしへいろく)

▲アド「罷出でたる者は、この辺(あたり)に住居(すまひ)する者でござる。某(それがし)は、塗師細工を致し、世を渡る者でござるが、身共の細工は当世にあはぬと申して、すきとはやりませぬ{*1}。又身共の弟子が、越前の北之荘と申す所に、塗師細工いたし、殊の外はやると申す。こゝ許(もと)が隙(ひま)なら{*2}、下る様にと申して、便(たより)いたしてござる程に、この度思ひ立ち、下らうと存ずる。まづ急いで参らう。やれやれ、久々住み慣れた故郷をふりすてて、かやうに田舎へ下ると申すは、何とも迷惑な事でござる。やあ、何かと申す中(うち)に、是がはや北之荘でござる。此辺(このあたり)ぢやと聞いた。定めて是であらう。まづ案内乞(こ)う{**1}。物もう。案内も。
▲女「やあ、表に案内がある。どなたでござる。
▲アド「いや、身共は都に住む、平六の師匠でござるが、何と、平六はいよいよ息災にござるか。身共も都で細工ははやらず、何と致さうと存ずる所に、平六が、隙(ひま)ならば下るやうにと云うて、便(たより)いたされたによつて、只今遥々と下つておりやる。其通(そのとほり)いうてたもれ。
▲女「はて扨、遥々をようこそお下りなされました。いとしやいとしや。此方(こなた)の事を常々申し出だされましたに、此七日以前に、空しうなられました。
▲アド「是は如何な事。身共は平六を頼(たのみ)にして下つたに、扨も扨も、力落(おと)した事でござる。何と致さうぞ。
▲女「はて、もはや是非もない事でござる。妾(わらは)も何と致さうと存じ、心許(こゝろもと)なうござる。
▲シテ「女ども女ども、漆漉(うるしこし)はどこに置いた。女ども女ども。
▲女「なうなう、これは如何な事。まづそちへ行かしませ行かしませ。
▲シテ「何事ぢや何事ぢや{**2}。
▲女「いや、都から、そなたの師匠ぢやと云うて、身代稼(しんだいかせぎ)に是へ下られたが、其方の師匠ならば、細工も上手であらう程に、はやるであらう。其時はこちの身代の妨(さまたげ)ぢやと思うて、こなたは七日以前に果てられたと申したほどに、そちヘはいつてゐさしませ。構へて逢はしますことはならぬぞ。
▲シテ「何と云ふぞ。師匠が下られた。懐かしや懐かしや。久しう逢はぬ。どれどれ、行(い)て逢はう。
▲女「いやいや、其方(そなた)は死なれましたと云うて置いたに、今逢はすれば、妾が偽者(いつはりもの)になる。是非ともあはしますなら、妾に暇(ひま)をたもれ。
▲シテ「何と云ふぞ。ひまをくれ。
▲女「なかなか。
▲シテ「それは気の毒なことを云ふなあ{*3}。何とせうぞ。それなら何とぞ陰(かげ)からなりとも、逢ひたいがなあ。
▲女「されば、何とせうぞ。一段の事がある。妾はあれへ行(い)て、平六の幽霊ぢやと云はうほどに、こなたは幽霊のこしらへをして出さしませ。
▲アド「それは一段ぢや。その体(てい)をして出やうほどに、そなたはあれへ行(い)て、よい様(やう)におしやれ。
▲女「心得ました。
▲シテ「追つ付け拵(こしら)へて出うぞ。
▲女「なうなう。それにござりますか。
▲アド「なかなか、是に居ます。今のは平六ではござらぬか。
▲女「さればされば、私も平六殿の声かと思うて見に参りましたれば、影も形も見えませぬ。此方(こなた)のこれへお出なされたを、草の蔭より見て、逢ひたいと思うて、幻にがな見えられたものでござらう。この上は、たゞ成仏いたされまする様に、平六殿の後を弔うて下されませ。
▲アド「如何にも、はや悔(くや)んでもかへらぬことぢや。この上は、一遍の回向なりと致さう。
▲女「それは忝うござります。御弔ひなされて下され。
▲アド「心得ておりやる。其方(そなた)もこれへ寄つて念仏を申しやれ。
《謡》旅人は鉦鼓(しやうこ)をならし{**3}、女房と。
▲二人「念仏申し、平六がなき後いざや弔はん、なき後いざや弔はん。
▲シテ「ありがたや、のりのうるしのえにちあれば{*4・5}、ふたゝび閻浮(えんぶ)にかへるなり{*6}。
▲アド「ふしぎやな、平六の姿形、影の如くに見えけるは、念仏の功力(くりき)かや。ありがたや。
▲シテ「《詞》われ平六が幽霊なるが、御弔(おんとむらひ)のありがたさに、これまで顕れ出でて候。
▲アド「さては平六が幽霊なるかや。都にて見し時よりは、衰へはてたる無残さよ。
▲シテ「《詞》われ都にありし時は花漆{*7}、今は年長(とした)け蝋色(らふいろ)の、漆の罰(ばち)やあたりたるかや。 
▲アド「しよくのありさま懺悔せよ{*8}。 
▲シテ「いでいでさらば語り申さんと、恥(はづか)しながら餓鬼道の、恥しながら餓鬼道の、ぬしとなつて、青漆(せいしつ)のごとくなる淵にのぞんで、漆漉(うるしこし)に水を入れて呑まんとすれば、ほどなく火焔と燃え上つて、身はやけうるしとなりたるぞや、身はやけうるしとなりたるぞや。
▲シテ「又ある時は布にまかれ、捻木(ねぢき)を入れて、ひたねぢに捻(ねぢ)つめられて、あら心うるし刷毛(ばけ)の、ばけ損(そこな)はゞ如何(いか)ならんと、風呂の小陰(こかげ)に入りにけり。塗籠他行(ぬりごめたぎやう)と云ふことも{*9}{**4}、塗籠他行と云ふことも、この時よりぞ始まりける。

底本:『狂言記 下』「狂言記拾遺 巻の三 六 塗師平六

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底本頭注
 1:すきと――「丸で」。「全く」。
 2:隙(ひま)――「仕事無く不景気」の意。
 3:気の毒な――「困つた」。
 4:のりのうるし――「法のしるし」をもぢる。
 5:えにち――「えにし」。「縁」。
 6:閻浮(えんぶ)――「この世」。
 7:われ都に云々――以下、「漆」につきて秀句を用ゐたり。
 8:しよく――未詳。
 9:ぬりごめたぎやう――「塗籠」は納戸の如き部屋也。内に籠りて留守を使ふこと。「室内旅行」。

校訂者注
 1:底本のまま。
 2:底本に句点はない。
 3:底本は「▲アド「《謡》旅人は」。
 4:底本は「塗籠他行と云ふこと(二字以上の繰り返し記号)も、」。