解題
 一人の男、河内国八尾の地蔵の文を持ちて冥土に赴く。地獄の主・閻魔王に遇ひ、九品の浄土に送らる。

八尾地蔵(やをぢざう)

▲シテ「地獄の主(あるじ)閻魔王、地獄の主閻魔王、邏斎(ろさい)にいざや出(いで)うよ。
《詞》これは地獄の主閻魔大王なり。扨も、今は人間が利根(りこん)になつて、八宗(しう)九宗に法を分け{*1}、弥陀の浄土へ、ぞろぞろとぞろめくにより{*2}、地獄のがしん、以ての外(ほか){*3}。それ故只今この閻魔王が、六道の辻へ罷出で、罪人(ざいにん)が来(きた)つてあらば、地獄へ責め落(おと)してくれうと存ずる。
《謡》住みなれし、地獄の里を立ち出でて、地獄の里を立ち出でて、足に任せて行くほどに、足に任せて行くほどに、六道の辻に著(つ)きにけり。
《詞》急ぐ程に、これははや六道の辻でござる。まづこの所に待つて{**1}、罪人が来らば、一責(ひとせめ)責めて責め落さばやと存ずる。
▲罪人「罪科(つみとが)もなき罪人を、罪科もなき罪人を、誰かは寄つて責めうよ。
《詞》これは河内の国八尾の近所に住居(すまひ)致した者でござる。某(それがし)不図(ふと)無常の風に誘はれ、只今冥土へ赴く。そろりそろりと参らう。
▲シテ「あら、いかう人臭い人臭い。されば罪人が来た。地獄へ責め落してくれうぞ。いかに罪人、急げ急げとこそ。やいやい、汝がその差し出す物は何ぢや。
▲罪人「是は娑婆に隠れもない、八尾の地蔵よりの御文(おふみ)でござる。見させられい。
▲シテ「さればその古(いにしへ)、この閻魔も地蔵と懇(ねんごろ)したによつて、その文をば用ゐたれど、今は地獄もがしんぢやによつて、用ゐる事はならぬ。今一責(ひとせめ)責めてくれうぞ。いかに罪人、地獄遠きにあらず、極楽遥(はるか)なり。急げ急げとこそ。やいやい、汝は余り文を差出すほどに、見てとらせう。まづ床几くれい。
▲罪人「心得ました。
▲シテ「その文をおこせ、見やう。さあさあ、汝も是へ寄つて、ともどもに読め。
▲罪人「心得ました。
▲シテ「まづ言上書(ごんじやうしよ)を見やう。えんもじ様参る{*4}、地(ぢ)よりと書かれた。これはまだ古(いにしへ)のことを忘れずに、書いておこされた。
▲二人「《謡》そもそも南瞻部洲(なんせんぶしう){*5}、河内の国八尾の地蔵の為には旦那、その名を又九郎と申せし者のためには、この罪人は小舅なり。
《詞》扨は汝は又九郎が小舅か。それならば又九郎が女房も推量した。汝に似たらば、みたむなかろ{*6}。
▲罪人「いやいや、私は似ませぬ。美しうござる。
▲二人「小舅なり。われを信じて月詣で、仏供(ぶつく)をそなへ歩(あゆみ)を運べば、我(わ)が為(ため)一の旦那なり。しかるべくは閻魔王、この罪人の、九品(ぼん)の浄土に送り給へ{*7}。それもならずは、地獄の釜をば蹴破(けわ)るべし。おう、がうけばつたる罪人かな{*8}、がうけばつたる罪人かな。
▲シテ「この上は力(ちから)なし。
▲二人「この上は力なしとて、罪人の手を執つて、閻魔王の案内者(あんないじや)にて、九品の浄土へ送り給ひ、それより地獄へ帰りしが、又立ち帰り、さるにても、あら名残惜しの罪人や、名残惜しの罪人やとて、鬼は地獄にかへりけり。

底本:『狂言記 下』「狂言記拾遺 巻の五 六 八尾地蔵

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底本頭注
 1:八宗(しう)九宗――「八宗」は、律・倶舎・成実・法相・三論・華厳・天台・真言也。禅を加へて「九宗」となる。
 2:ぞろめく――「歩き行く」こと。
 3:がしん――「餓死」。
 4:えんもじ――「閻魔」の頭字を女房詞にて書く。
 5:南瞻部洲(なんせんぶしう)――「南閻浮提」に同じ。須弥山の南の国なり
 6:みたむなかろ――「見ともなかろう」にて、容貌の醜き意。
 7:九品(ぼん)――極楽往生の等級にて、上中下の三品に各上中下の三生あり。上品上生が最上也。
 8:がうけばつたる――「剛け張りたる」か。「強力」の意なるべし。

校訂者注
 1:底本は「まつこの所に」。