和泉流狂言集の出版に際して
狂言文集の出版は余程の難事業である。言ふ迄もなく狂言は至醇なる笑の芸術であつて、その起原は其附属する能よりも遥かに古い所にある。而して其笑の中には皮肉があり諷刺があつて最も適切に其時代の思想風習を反射したものである。
それだけに其組立、其用語文章等は必ずしも今日いふ如き正確なる語法句法に従つたものではない。此故に狂言集の出版は頗る困難なのである。
此破格な句法又は当時全く耳馴れぬ古き時代の俗語等は、舞台に上せて実演せられる場合には、聴衆観者にとつて何等の不自然もなく不都合もなく円転流露し来るが如く思惟せらるゝも、一度之を文章として見る時は、其処に百の不都合、千の不自然が露出し来つて宛ら別種のものを見るか如き趣きを呈する事がある。即ち此欠陥を補はんが為に、此出版を文学者の手に委して其検閲を経るとせば、或は単なる文章として比較的完全なる所まで修正され得るかも知れぬ。乍然それは専門家=狂言師又は狂言を解する者にとつては全く無価値なものとなり畢るので、従来の版本が全く此方面に無視され閑却されたのも無理ならぬ事である。
さらば全く文学者の縁を離れて、全然之を専門家の手に委ぬるとせんか、舞台上のものと一致せるものは庶幾し得べきも、文章としては自然粗雑不統一なりとの譏を脱るゝ事は出来ない{*1}。従つて舞台上にも効果あり又読物としても充分の統一を有するものでなければ此種の出版は全く無意味の事になる。即ち此両者を完からしむる事が難中の至難事なのである。
既に此欠を補はんが為に故大和田建樹氏と先代山脇氏との間には、相協力して之が完成を期すべき約があつたとの事であるが、両氏共幾何もなく天堂の人となつて、空しく歳月は過ぎた。偶当代山脇氏先代の素志を貫徹せんとの志厚く、夙に其実行に意ありしも、病弱の故を以て其進行遅々たりしが、小早川、藤江の諸氏は師の情を思ひ、其病の不治なるを見て、切めては其生前に之を完成せんと協力して其出版を江島書肆に托さるゝ事となつたのである。
乍然和泉流は其流義の歴史が古く、且其勢力範囲が広かつたゞけに流中に二三の派があり、其用ふる所の曲にはそれぞれ相違の点がある、従つて其中の何れを採らんかとの問題等もあつて着手後種々なる渋滞を来したが、結局現在東京の舞台に於て最も多く用ゐられつゝあるものを基礎として公定せんとの事に一決し爾来着々としてその歩を進めたのである。勿論前述の欠陥を互ひに相補つて比較的完全な狂言文集たらしめんと努めた事は勿論である。
然るに其第一巻将に成らんとして幾度かの校を了せし際、突如として山脇和泉氏の訃音を聞くの不幸に際会した。嗚呼山脇氏逝く、此書は遂に氏の遺著として氏に代つて世に出づる事になつた。氏の臨終に於ける感慨や想見すべきであるが、然し又此書完成の近きを思へば氏も亦安んじて瞑するであらう。
殊に又頃者、氏を中心とする諸氏と、全然別派の観ありし野村氏との関係昔日の如き円満に帰り、相携へて流義の統一発展に努むとの吉報に接した。然らば此多事なる秋に生れた本書の意味は甚だ重大なるものであると考へる。聊か本書の成立と山脇氏を悼むの意とを叙して序に代へる。
大正五年三月
わんや 江島書肆編輯局
校訂者注
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